☆またまたスペースで村上春樹についてのお話を聴きました♪☆
先日、村上春樹『象の消滅』についてのスペースに参加させて頂きました。
僕が持ちえなかったいろんな角度の意見を聞けて、とても面白かったです!!
先週は、『村上春樹を歩く』『なぜあのキャラは死ななければならなかったのか?』の著者・浦澄彬さんとの対談スペースがやっていて、アーカイブで聴かせて頂きました。
車で運転中にスマホからBluetoothでスペースのアーカイブを聞かせて頂いたのですが、すごいことができる時代になったもんだなーと感動。
初期3部作の僕と鼠の関係性、ダンスの6つの死体についてなど興味深い話のオンパレードでしたが、僕が一番興味深かったのが、『ノルウェイの森』のワタナベと永沢さんの相似性でした。
たしかに聞いているとワタナベと永沢は合わせ鏡のように似通った人物のように思えてきます。
僕×鼠、ワタナベ×キズキの違いなんかの話も面白くてテンションあがりました。
浦澄彬さんは、はてなブログでも記事を書かれているみたいなので、紹介させていただきます♪
☆村上春樹が『こころ』が苦手な理由とは?☆
夏目漱石って最近までそこまで惹かれる作家ではなかったのですが、『こころ』がめっちゃ良かったので、『三四郎』とか最近はボチボチ読んでますわ。
もともと、なんか『夢十夜』はめっちゃ好きです。
村上春樹関連で、『海辺のカフカ』に出ていた『坑夫』は読みました。
あと、僕が住んでいる愛媛県松山市は、夏目漱石が教師時代に赴任して、名作『坊っちゃん』の舞台になったことでも有名だったりします。
愚陀仏庵跡とか、駐車場に赤シャツパークってところがあったり、野球場が「坊っちゃんスタジアム」「マドンナスタジアム」だったりとか、松山の文学賞が「坊っちゃん文学賞」とか、銘菓に「坊ちゃん団子」ってのがあったりとか、道後温泉のからくり時計が坊っちゃん的なやつだったりとか、だいぶ坊っちゃんアピールしてますが、別に夏目漱石の出身が愛媛県なわけではなかったりします。
こんなふうなので、僕ももちろん愛媛県人の(なんちゃって)読書家として『坊っちゃん』は読んで、ま、せん・・・。
うん。
現場からは以上です。
そんな、ちょっとだけ夏目漱石読んじゃってる芸人のヒロ氏が村上春樹×夏目漱石のスペースに参加させて頂きました。

参考文献(?)に短編集『神の子どもたちはみな踊る』の『蜂蜜パイ』と、短編集『レキシントンの幽霊』の『七番目の男』があがっていたのですが、読み返すのをすっかり失念していて、宿題を忘れた生徒のような気持ちでスペースに参加していました。
まず、基本的に村上春樹は、近代的自我を取り扱った日本の近代小説にほとんど興味がないと、『みみずくは黄昏に飛びたつ』でバッサリ言っています。
うっそ、マジか~。
ロック好き少年が、好きな女の子に「音楽どんなの好き?」って聞いて「クラシックとか。ロックみたいにうるさいのはキライ」って言われたぐらいにはショックでした。
では、「近代的自我」とは何ぞやというと、明治以前の日本においての「個」に発露が悪とされていた時代から、個の自我の解放を謳われ始めた状況において、はじめて個人の精神の葛藤を描き始めた作品ということだと思います。
たぶん。
たぶん。
そういう作品たちって、「俺が」「俺の」「俺による」みたいなどこまでもオレオレなオレオレ詐欺的な、自我自我している自画自賛な文学だったでしょうかね?
とにかく「自己の精神」に向けての内省的な掘り下げ、考証を主とする文学だったように思います。
三島由紀夫『金閣寺』、太宰治『人間失格』とかも、そんな感じ~?
そういえば、その人たちの作品は作品中で触れられていないように思いますね。
出てくるのは主に海外文学ばかりやね。
そんな中でも、唯一(?)と言っていいほど作品中(特に『海辺のカフカ』)でもフューチャーされていたのが夏目漱石。
スペースで、村上春樹と夏目漱石の共通点で、英語が得意な2人ということが挙げられていて、なるほどと思いました。
英語という共通点は、軽やかな文体を持つ2人の作家の大事な要素なのかもしれませんね。
そして、なぜ村上春樹が他の夏目漱石作品を例えば『三四郎』や『坑夫』を好きなのに、『こころ』は苦手なのか?
僕は『こころ』が好きなのでおおいに疑問だったのですが、先生の自死で終わってしまって、救いと再生が描かれていないからではということでした。
たしかに、『こころ』はKを裏切って、妻と結婚した先生が自死する鬱展開ラストです。
そこには、明治という時代、まだまだ個より全体が尊ばれていた時代背景も深く影響していたようです。
人一人の命の重さも、現代よりは軽かったのだろうなと思います。
『こころ』『ノルウェイの森』は同じ男女間の三角関係の話ではありますが、『ノルウェイの森』で直子が死んだあとのワタナベが描かれていて、そこに混沌と再生の欠片が描かれているのに対して、『こころ』は先生の自死で物語が完結してしまう。
時代背景はありますが、そこに救いはひとかけらもありません。
多くの死が描かれ、決して全面的に前向きな物語ではありませんが、村上春樹が描く物語には必ず再生とひとすじの光明が描かれているように感じます。
僕が村上春樹と比肩するほどに好きな作家である、中村文則の書評によく書いている言葉である「パンドラの匣に最後に残った一握の希望」は、実は村上作品においても言えるのではないかと思いました。
絶望の果ての(仄かな)希望。
高校生が『七番目の男』が『こころ』のリライトではないのかといった論文を書いたのがスペースで紹介されていたのも興味深かったです。
たしかに、主人公の友人だった男がKだし、K死ぬし、Kを裏切ったという罪悪感に苛まされ続けるし、めっちゃ『こころ』やーん。
寺田心くんもビックリなぐらいの『こころ』っぷりでした。
ただ、大きく違う点は、救済と再生でした。
七番目の男はこう言います。
「(前略)しかしたとえ遅きに失したとしても、自分が最後にこうして救われ、回復を遂げたことに、私は感謝しております。(後略)」
救われて、回復した。
以前、『壁とその不確かな壁』のスペースで語られた印象的だったワード。
「少女の魂を救済する」という言葉。
このワードが実は村上春樹文学の根底的なテーマであると思いました。
同時に、幾多の村上春樹作品を読み解く「マスターキー」のような存在であると感じました。
直子的な存在への救済、レクイエム。
そうやって語っていくと、『こころ』をなぜ村上春樹が苦手と感じたのかが理解できたように思いました。
ちなみにこの記事を書きながら聴いていたのが坂本龍一のアルバム『async』でした。
どこか、祈りを感じるような。
闇に射す一条の光のような音の粒たち。
なにか記事の内容と、シンクロニシティを感じました。
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