1、作品の概要
『抗夫』は夏目漱石の長編小説。
1909年に刊行された。
1908年1月~4月まで朝日新聞に連載された。
恋愛関係のもつれから出奔した若者が抗夫になろうとする。
実在のモデルがおり、小説とルポルタージュのあいの子のような作品。
2、あらすじ
裕福な家に生まれた19歳の主人公は、恋愛関係のもつれから家を出奔する。
あてとなく旅をする彼は、周旋屋に誘われて抗夫になるために銅山へと向かう。
しかし、そこで彼を待ち受けていたのは想像を絶する過酷な環境であった・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
村上春樹『海辺のカフカ』で取り上げられていた作品で、ずっと読んでみたいと思っていました。
『抗夫』は、夏目漱石の作品の中では、名作の『こころ』などと比べると未完成で粗が見える作品。
しかし、その未完成さ、不完全さが『海辺のカフカ』の主人公・田村カフカの心を捉えます。
それほど夏目漱石の作品を多く読んでいるわけではないのですが、そんな村上主義者的な不純な動機から『抗夫』を読みました。
4、感想(ネタバレあり)
まずいきなり本題ですが、この『抗夫』という作品は一体夏目漱石にとってどのような作品だったのでしょうか?
意気込んで時間をかけて書いた大傑作なのか?それとも・・・。
この作品が描かれた背景は残念ながら突発的なものが重なったような感じで、ある日突如として漱石のもとを訪れた荒井なにがしという男が、「自分の経験を小説にしてほしい」と申し出たのがまずの発端のようです。
その時に話されたのは抗夫になる前の話がメインであったようですが、漱石は一度はこの申し出を断ったようです。
しかし、朝日新聞の連載を書くはずだった島崎藤村の原稿が遅れ、漱石におはちが回ってきて、くだんの荒井の話の抗夫生活をメインに書くことになったようです。
なにやってんねん島崎藤村!!
ちなみに僕と同じ大学出身の大先輩っす。
前置きが長くなりましたが、そんなわけで夏目漱石にとって偶発性が強い実験的な作品であったのではないかと思われます。
作中で、こんな文章が出てきた時には驚きました。
もっと大きく云えばこの一編の『抗夫』そのものがやはりそうである。纏まりのつかない事実を事実のままに記すだけである。小説の様に拵えたものじゃないから、小説の様に面白くはない。
いやいや、漱石さんまさかやっつけ仕事ですか?
匙を投げたん?
話聞こうか?
とかなりましたが、続く文章でこう記されています。
その代わり小説よりも神秘的である。凡て運命が脚色した自然の事実は、人間の構想で作り上げた小説よりも無法則である。
これが漱石が『抗夫』で試みようとした実験だったのでしょうか。
小説は拵えものだからエンターテインメント性が高くて面白いが、神秘性がなく、ある定型と法則性がある。
対して、事実を基にしたものは荒々しく面白みに欠けるが、神秘的で無法則なもので人の理解の範疇を越えたような出来事が起こる。
といったことなのでしょうか。
だとすると、漱石が『抗夫』で試みたものは物語と物語性の破壊であり、荒々しくそっけない文体も説明がつきます。
ビートルズで言えば『ホワイトアルバム』みたいな作品だったのかもしれません。
主人公の青年はひと言で言ってしまえば、「ぼんぼんクソ野郎」です。
ちょっと若い頃の太宰風味を感じるクソ人間ぶりで、東京の良家に生まれながら、許嫁を差し置いて他の女にうつつを抜かし、それが明るみに出て親族たちに叱責されると、なにもかも嫌になり自殺も駆け落ちもする勇気がないから一人出奔してしまいます。
このゆとり世代が!!もやしメンタルか!?
抗夫になろうとしたのも、なかば行きがかり上のやけくそ。
坑内に入ったら入ったで、自死しようと強く決意するようなダメ人間です。
しかも健康上の理由で結局は抗夫になれず、5カ月帳簿付けとして勤めて旅費が溜まったらさっさと東京に帰ってしまいます。
なんの成長もない。
安西先生から「まるで成長していない」って言われるレベルです。
しかし、そこも物語性の否定であると思いますし、最後の尻切れトンボのような結末は非小説であることの顕れのように思います。
ー自分が抗夫に就いての経験はこれだけである。そうしてみんな事実である。その証拠には小説になっていないんでも分かる。
最後の一文は強烈なアイロニーのようにも感じますね。
小説の様に描きながら実は小説ではない。
ところどころで読者を突き放すような挑戦的な雰囲気が尖っていますね。
また『抗夫』は村上春樹作品および『海辺のカフカ』と大きな共通点があります。
それは異界に潜って現実に回帰するということです。
村上春樹の作品の好きなところのひとつはとんでもない経験をして、非現実的な空間を潜り抜けながらも、主人公が実はたいした変化をしていないことにあります。
あっ、これって個人の感想ですからね。
それって、村上春樹がステレオタイプな物語の、何かを潜り抜けて成長し違った自分に生まれ変わる、といったものを否定しているように僕は感じるのです。
だから村上春樹の小説を読んで、「えっ、一体何が言いたいの?」という方が一定数いらっしゃるのはよくわかりますし、その原因のひとつは起こったことの大きさに対しての主人公の変化のなさだと思います。
漱石の『抗夫』もその点においては村上春樹の物語と共通点があります。
普通描かれるはずの成長譚は全く描かれず、抗夫として坑内深くまで入っていった特異な経験をしながら、主人公の青年はなにも得ることがなく外の世界へと出てきます。
いや、仕方ないですよね。
『抗夫』は純粋な小説や物語ですらないのですか。
万人が望むような成長の物語は描かれていないのです。
そして、その点が「物語」を読んでいる読者を困惑させます。
しかし、その荒々しさと実験性が刺さる人には刺さるのかもしれません。
物語性を否定した物語に似たなにか。
それが『抗夫』の本質だったのではないかと思います。
5、終わりに
偶発的な要素が重なったとはいえ、『抗夫』はだいぶロックな要素を持つ作品だったのだと思います。
物語の否定という点では、安部公房『箱男』を思い出させられました。
まあ、全然違う作品ですがね(笑)
しかし、村上春樹が『海辺のカフカ』でこの作品にがっつり触れたのは本当に興味深いですし、自分の作品に相通ずる精神性を見出したのかもしれないと思います。
メタファーではなくて、『抗夫』の青年はあくまでフィジカルな意味で地下へと潜っていくのですが。
そして同じ1908年のうちに『三四郎』『夢十夜』を書きあげた漱石。
さすが、お札になる男は違うぜ!!
って思いました。
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