1、作品の概要
1992年に刊行された。
文庫本で271ページ。
月刊「カドカワ」の1989年1月号~91年11月号に連載された。
パリ、モロッコ、バルセロナと旅を続けるマチコがガイドとしての自らの役割に目覚めていく。
2、あらすじ
昼は受付嬢、夜はいつも違う男と寝る破天荒な生活を続けるマチコ。
精神を病んで精神病院に入院していた彼女は、先生と呼ばれる男に見初められてパリへと旅に出る。
パリでガイドとしての役割に目覚めて、特別な能力に目覚めたマチコは男の元を離れて旅に出る。
マチコはドラッグ、セックス、アルコールで退廃的な日々を送りながら、何かに導かれるように旅を続ける。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
「自由とはメタリックなざわめきである」
『イビサ』の作品中の1文ですが、とてもつもなく意味がわからなくて、とてつもなくかっこよくて、とてつもなく興味をそそられる文章です。
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村上龍は好きな作家の1人ですが、まだ読んでいない作品が多いので特に1990年代の作品は読んでみたいですね。
4、感想(ネタバレあり)
1980年~1990年代がやはり村上龍の全盛期だったのだなと再認識させられるように作品でした。
特に1990年代はとんでもなく多くの優れた作品を発表していて、『五分後の世界』『ラブ&ポップ』『KYOKO』『インザ・ミソスープ』のような代表作を毎年のように刊行しています。
なんかオーラ出まくってましたし、文章からも力強いメッセージとイマジネーションが迸っています。
何かを伝えよう、表現しようという強いモチベーションを感じますし、実際にこの頃の作品はただ単に優れた小説というだけではなくて、社会的に大きな影響を与えるような強いインパクトがありました。
村上龍は小説でやりたいことをある程度やりきってしまったように思いますし、もともと多くの分野に興味を持って新しいことが好きなパーソナリティーを持った人だと思うので、物語を書くことより経済とか他の方面に興味が出たのかなと思っています。
さて話を「イビサ」に戻しますが、この作品を書いたころの村上龍は作家として意欲に満ちていて、物語からとても強い意志の力を感じます。
正直、村上龍という作家は文章が美しいとか巧みであるというタイプの作家ではないと思いますし、ハッと驚くような物語を作るわけでもありません。
ただ、選ぶテーマが誰も思いつかないような斬新なものですし、読んでいる間中、鈍器で殴り続けられているような強いメッセージ性を感じます。
そして、文章から迸る鮮烈なイマジネーション。
文章で表現していながら文章で表現することがもどかしいような、それでも文学の可能性を模索し挑戦しているような、文章を使ったアートという印象が強いです。
全くタイプが違う作家でありながら、鮮烈なイマジネーションといった部分で中上健次と重なるところもあるように思います。
あとがきの村上龍自身の言葉が秀逸すぎて、いやもうこれで感想良くね?みたいな感じです。
たしかこの頃、「自分探し」みたいなワードが流行ったように思いますが、村上龍はそこにはっきりとNOを突き付けています。
自分と向き合うことは危険で、そこには何もないのだ、と。
これは、破滅的なストーリーである。
自分と向かい合う旅、それを実践した女性の話だ。
自分と向かい合うのは危険なことだ。
麻薬や宗教や芸術やセックスは(それに幻影さえも)、自分と向かい合うのを避けるために存在している。
自分は何者か?などと問うてはいけない。
自分の中に混乱そのものがあるから、ではなく、全く何もないからだ。
内部と外部という言い方はもう既に嘘なのだ。存在するのは関係性だけ、あとはすべてのっぺらぼうの表面だけだ。
『イビサ』は、破滅的だが、まったく暗くない。
マチコは現代の日本社会で生きていくのに空虚さを覚え、精神を病み、導かれるように旅にでます。
不思議な能力と、自らのガイドとしての役割に目覚めますが、彼女が辿り着いた約束の地であるイビサでは手足を切られて悲惨な末路に・・・。
しかし悲壮感はなく、破滅的な物語の末の破滅的な終焉にもかかわらず暗さはありません。
現世利益を大きく超越した古代から連綿と続くガイドにとっては手足の有無など些細なことだったのかもしれません。
5、終わり
主要な登場人物が誰も自堕落で、常に暴力と死の香りが漂い、セックスとドラッグが彩るソリッドな物語でした。
強いメッセージと意志を文章の端々から感じました。
僕もそのうち導かれるように旅に出てみたいです。
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