1、作品の概要
書き下ろし。
新潮社より刊行された。
単行本はBOOK1、BOOK2、BOOK3からなり、文庫本は全6冊に分冊されて刊行された。
BOOK1、BOOK2は2009年5月29日に刊行され、BOOK3は、2010年4月16日に刊行された。
ページ数は、BOOK1が554ページ、BOOK2が501ページ、BOOK3が602ページ。
BOOK1、BOOK2は天吾の章、青豆の章の物語が交互に展開し、BOOK3では天吾の章、青豆の章、牛河の章の物語が展開していく。
現実とは微妙に異なる1Q84年の世界に紛れ込んだ天吾と青豆がお互いを求めあう物語。
2、あらすじ
青豆雅美は、広尾のジムでインストラクターを務めながら、妻に暴力をふるうどうしようもない男たちの命を秘密裏に奪っていた。
彼女は、かつてソフトボールを一緒にしていた親友の大塚環を夫の暴力の末の自死で失ってしまった過去を持っていた。
自宅で出張個人レッスンを担当していた麻布の柳屋敷に住む老婦人により、自らも娘を夫の暴力により失った過去を聞かされ、暗殺者として彼女とともに暴力的な男性たちを違う世界に移動させることを決意する。
老婦人の秘書・タマルのバックアップを受けながら仕事をする青豆だったが、セーフハウスに匿われた1人の少女に関する危険な任務を遂行することになる。
標的は宗教団体「さきがけ」のリーダー。
危険な任務を前に青豆は、小学4年生の時に手を握って心を通わせた1人の男の子のことを思い出す。
予備校の数学講師の川奈天吾は、仕事のかたわらで作家も志していた。
ある時、懇意にしていた編集者の小松より、17歳の少女ふかえりが書いた小説『空気さなぎ』のリライトを依頼される。
不思議な少女・ふかえりは、宗教団体「さきがけ」のコミューンで育つが10歳の時にそこから逃げて、父の友人である戎野先生のもとで暮らしていた。
彼女と戎野先生の信を得た天吾は、自身も望むリライトを成し遂げ、月が2つ浮かぶ世界で少女とリトル・ピープルが空気さなぎを作り出す物語は新人賞を受賞し、爆発的な売り上げを上げる。
しかし、その成功のおかげで天吾と小松は、宗教団体「さきがけ」に目を付けられ、深刻なトラブルへと巻き込まれていく・・・。
青豆と天吾は、いつのまにか月が2つ浮かぶ世界である1Q84へと移動し、やがてお互いを強く求めあうようになる。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
発売日が2009年って、もう15年前ですか。
村上春樹大好き中年の僕は、発売日に本屋さんにダッシュして貪るようによみましたよ。
時の流れは残酷なもので、読んだ当時30代前半で青豆と天吾よりの年齢だったのに、いつのまにか小松さん(45歳)、牛河(40代中盤)になったどころか、彼らの年齢も追い越してしまいました。
どうも、47歳の文学好きな夢見がちな初老ヒロです(;^ω^)
以後、お見知りおきを・・・。
ちなみに発売日に即GETした村上春樹の作品は『1Q84』が初めてだったかもしれませんね。
以後の作品はすべて発売日にGETして、僕の中では村上春樹の新作の刊行は、一大行事になっています。
短編作品は文芸誌に掲載されてから、短編集として刊行されたりしますが、長編小説は書き下ろしで、内容が明らかにならないまま読むので楽しみもひとしおというものですね。
今回、たぶん3度目の再読だったのですが、きっかけは現実に月が増えて2つになったというニュースでした。
2024年9月から2か月間限定で、しかも肉眼では見えないとのことでしたが(;^ω^)
たまにうまい具合に地球の引力にのっかって月(地球を回る衛星)が増えることがあるみたいですね。
このニュースを読んで、月が2つ浮かぶ世界を描いた物語である『1Q84』読むなら今しかないでしょ!!ってなりました(笑)
4、感想(ネタバレあり)
①物語の背景
ジョージ・オーウェルのディストピア小説『1984年』を土台に書かれた『1Q84』ですが、ジョージ・オーウェルが1949年に近未来を描いたことに対して、村上春樹は近過去を舞台にして、現実とは異なる世界を舞台にしています。
僕は『1984年』は未読ですが、wikiでちょろっとあらすじを読んでみたところ、全体主義を強く打ち出し、分割統治が行われ、ビッグ・ブラザーによって個人は厳しく管理されているという内容でした。
特にふかえりも空気さなぎも出てこないので、村上春樹は『1984年』のどのへんを土台にしたんだろうと思いましたが、おそらくこの個人が厳しく管理された全体主義の社会という部分だったのかなと思いました。
ビッグ・ブラザーは、架空の超大国・オセアニアの絶対的指導者で、国民を監視し抑圧している存在です。
対して『1Q84』でビッグ・ブラザー的な役割を担っているのがリトル・ピープルなのだと思います。
リトル・ピープルは、国家を統治しているわけではありませんが、『1Q84』の世界の理そのものような存在であるかのように感じました。
そして、人々を監視しているという点では共通しているのだと思います。
宗教団体が出てきたことで、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」のことについて書かれたノンフィクション『アンダーグラウンド』『約束された場所』のことを、連想した人は多かったのじゃないでしょうか。
『アンダーグラウンド』のあとがきには、こう書かれていました。
いつかもっとずっと先に、この仕事で得たものが、僕自身の遺跡として(あるいは)出てくるかもしれません。でもそれはほんとうに先のことです。
本を書き上げたあとも裁判の傍聴を続けた村上春樹は、8人を殺した林泰男死刑囚に強い関心を持っていたようです。
本来、人を殺すような人間ではないのに、流されて気が付いたら多くの人を殺した殺人犯となってしまっていた。
「ごく普通の、犯罪者性人格でもない人間がいろんな流れのままに重い罪を犯し、気がついたときにはいつ命が奪われるかわからない死刑囚になっていた——そんな月の裏側に一人残されていたような恐怖」の意味を自分のことのように想像しながら何年も考え続けたことが出発点となった。
さきがけのリーダーこと深田保も、月の裏側に一人残されてしまった人間の一人だったのかもしれないと思いました。
コミューンを作って閉塞的ながら穏やかに暮らしていたのに、偶発的にリトル・ピープルのレシヴァとなってしまい、異質な存在へと変貌し、身体もボロボロになってしまった。
まるで、月の裏側に一人残されていたような恐怖と圧倒的孤独。
林泰男死刑囚とリーダーが感じていた苦悩はどこか結びついているように感じました。
もちろん、2人のしたことは許されないことではあるのですが・・・。
②父親について、対立から和解へ
初期の長編作品ではほとんど語られなかった家族、両親についてですが、『海辺のカフカ』において初めて父と母について言及されました。
しかし、そこは村上春樹でサザエさんみたいな普通の一家の心温まる話が描かれるはずもなく、エディプスコンプレックス的な父親との対立と、母親との姦通が大きなテーマとして描かれていました。
さすがやで(笑)
『1Q84』でも天吾と父との対立が描かれ、母の不在とその謎という『海辺のカフカ』でもみられた構図で物語が進んでいきますが、15歳だった田村カフカくんの(メタファーとしての)父殺しが描かれていたのに対して、『1Q84』では一種の和解ともいうべき内容が描かれていたのが興味深かったです。
天吾は父親との対立を経て決別し、自活している30歳の男性で、田村カフカとはまた立ち位置に違いがありました。
そして、村上春樹自身も確執があった実父を2008年に亡くしており、もしかしたら晩年の父親との関係性の変化が、『1Q84』の物語にも影響したのかなと思いました。
村上春樹作品における父親の不在、確執は重要なファクターのように僕は思っていて、例えば降って湧いたように思えた『ねじまき鳥クロニクル』の戦争体験の話も、実は村上春樹が父親のエピソードに大きな影響を受けていましたし、『海辺のカフカ』『1Q84』では父親との対立が物語の中で大きな鍵となっていました。
父親との関係性については、『猫を棄てる』でだいぶ赤裸々に描かれていて、村上春樹の作品を紐解くうえで重要なヒントとなる自己開示がなされていました。
今までどちらかというと自分のことはあまり話さないイメージでしたが、どういう心境の変化でしょうかね?
「父親のことはいつか書かなければならないと思っていた」みたいなことを言っていたようですし、いつかはやらなければならないことのひとつだったのでしょうね。
父親との和解というと、志賀直哉『和解』が思い浮かびますが、『1Q84』で描かれた父親との和解は感動が伴うような劇的なものではありませんでした。
ほぼ天吾が歩み寄ったような形の和解でしたし、父親はすでに認知症を患っていました。
しかし、認知症になったからといって記憶や脳の機能がすべて失われてしまうわけではありませんし、ラジオの電波のようにチューニングがうまくあったり、また外れたりしてむらがあったりするものだったりします。
天吾の父親は、天吾のことが誰なのわからなくなっているようでしたが、それでも天吾の問いかけに真実とも思えるようなことを話してくれていました。
「あなたは何ものでもない」と父親は感情のこもっていない声で同じ言葉を繰り返した。「何ものでもないし、これから先も何ものにもなれないだろう」
しかし、そこで知り得た事実の断片は客観的にみてあまり心地よいものとは言えないもののようでしたね(;^ω^)
たとえ血のつながりがなかったとしても、酷いこと言うなと思いますが、それでも父親なりに義理(?)の息子に向き合ってくれたのかもしれませんね。
「ただの空白だ。あんたの母親は空白と交わってあんたを産んだ。私がその空白を埋めた」
③リトル・ピープルと全体主義、そしてそれに対抗しうる物語
村上春樹は、急速に近代化して温かみをなくしていく社会のシステムに対して物語の中でささやかではありますが、常にノーを突き付けてきたように思います。
そして、彼の作品の中で最も先鋭化された形でノーを突き付けたのが『1Q84』だったのではないかと思います。
「原理主義やある種の親和性に対抗する物語」を立ち上げていくことが作家としての責務だみたいなことを村上春樹はインタビューで答えていたようですが、彼が常々いっていた「物語の力」をとても深いところで感じ取れる物語ですし、とても強いメッセージが発せられていると思います。
国家、社会、システムの維持のために個人の尊厳が奪われる。
そんな全体主義。
ビッグ・ブラザーのモデルはスターリンとのことですが、ロシア、北朝鮮、中国などの共産圏の国々が思い浮かびますね。
うん、どの国も海を挟んだ日本の隣国やね。。
ジョージ・オーウェルはビッグ・ブラザーの登場を予見し、『1984年』を書きましたが、彼がその物語を書いたことでビッグ・ブラザーの存在は人々に予見され警戒され脅威ではなくなりました。
もちろんそんなに物事は単純ではないですが、人々に全体主義の危険性が物語として伝わることで、ほんの数パーセントでもそんな独裁国家が誕生する可能性の芽を摘めた。
村上春樹はそう考えたのではないでしょうか?
そして『1Q84』を書くことで、全体主義、ある種の神話性、そして世界の理そのものに対抗しうる、個人の運命を変革するような物語を生み出そうとしたのではないかと思います。
彼の作家としての姿勢は、有名なエルサレムでの「壁と卵」のスピーチからも窺い知れます。
くしくも『1Q84』刊行前の2009年2月18日のスピーチ。
もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。
そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったいその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?
私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに絡め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試み続けること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けるのです。
いや、もう素晴らしい。
以前は、このスピーチをただの戦争批判として捉えていましたが、『1Q84』を再読して、もっと総体的な国家・システムと個人の対立の問題について言及していると、認識を改めました。
村上春樹は、個人の尊厳を損なうシステムを批判し、警鐘を鳴らすべく物語を書き続けていて、その物語はか弱く、時には間違いを犯している個人の魂の尊厳のために作家として活動を続けている。
その個人には自らも含まれるのだと思いますし、すれ違っていった人たち、失われてしまった近しい人たちも含まれるのでしょう。
個人の尊厳がないがしろにされているのは一部の共産圏の国や、貧しい国々なのではないか?
しかし、近代化された資本主義の国々でも度を越えた「Big Brother is watching for you」な監視社会が到来しています。
マイナンバーカード、至る所で稼働する監視カメラ・・・。
ビッグ・ブラザーが統治する世界とはまた違った形での、全体主義への危険な萌芽が見られるような気がします。
そしてシステムを超えた、人間の根源的意識に巣食う神話性。
最近、村上春樹がよく使っている集合的意識と言い換えてもいいでしょう。
ここは難しいので僕もうまく理解できなかったのですが、例えばキリスト教における原罪のようなものなのか?
あるいは、日本におけるアニミズムのような自然の崇拝(大きな石とか、木をあがめる)のようなものなのでしょうか?
お地蔵さんを見たらなんとなく手を合わせちゃうみたいな?
そういった形がないけど、昔から存在していて、なおかつ人間の意識の奥深くにあるものの象徴がリトル・ピープルなのではないかと思います。
善悪を超えた存在。
それは言葉を変えるとこの世の理のような存在かもしれないですし、そんな理=運命を超えてでも(間違っているかもしれない)個人の行動に寄り添うのが『1Q84』の物語であったのだと思います。
具体的に言うと、リーダーと青豆との取引で、1Q84の世界で青豆が死に天吾が助かり、どこの世界線でも2人が再会することはないのが、リトル・ピープルと世界の理=運命だとします。
神話性、システムに絡み取られて失われていく個人の物語。
壁にぶつかる卵たち。
そこで、その理の外へ出ていくこと、運命を、神話性を凌駕していくことが『1Q84』の物語の神髄だったのだと思います。
それを成すことが、天吾と青豆、2人の再会だったとしたら。
こんなにロマンチックなことはありません。
④新しいリアリズム
村上龍が『イン・ザ・ミソ・スープ』を書いていた時に、登場人物のフランクが大量殺人を行っていた場面を書いていたその時に、神戸連続児童殺傷事件が起きました。
彼はあとがきで、現実が想像力を浸蝕し、想像力が現実を打ち負かそうとしたと、語りました。
事実は小説より奇なり。
時に、現実に起こった事件は、創作を超えていく。
神戸の震災、地下鉄サリン事件、9.11、東日本大震災・・・。
僕が生まれてからの間でも、想像を超えるような物語の想像力をも凌駕してしまうような、驚くべき出来事が立て続けに起こりました。
ただ、現代にこういった出来事が集中しているかというと、そういう側面もあるかもしれないけど、テレビ、インターネットなどのメディアの隆盛によってより広範に繰り返し、ある意味では執拗と言えるほどに人々の意識に摺りこまれるようになったのではないかと思います。
そして、それは精巧に作られたフィクションの作品との境界を時には曖昧にしてしまい、見る者の現実感を危うくさせてしまう事態になってしまいました。
実際、9.11で飛行機がビルに突っ込んでいくニュースをすぐに現実だと受け入れることができた人がいたでしょうか?
それと、現代には精巧に作られた一目ではフィクションだと思えないようなリアルな作品が多くあります。
それが余計にフィクションとノンフィクションの境目を曖昧にしていっているようにも思えます。
今後、VR、ARなどの仮想現実が発達すると余計にその傾向に拍車がかかりそうです。
『1Q84』でも、1984年から別世界に移動してしまったことで、この世界がリアルなものなのかどうか、何が現実で何がフィクションなのかが繰り返し問われることになります。
現実を徐々に想像力が浸蝕していって、気が付いたら世界の成り立ちがが変わってしまっているみたいなところが村上春樹作品の大きな魅力のひとつだと思うのですが、『1Q84』の世界に天吾と青豆が入り込んだことで、今まで当たり前だった現実がいつのまにかその形を変えてしまっています。
その象徴がもちろん夜空に浮かぶ2つの月です。
『空気さなぎ』の、そして天吾が書いている長編小説の世界と全く同じの2つの月。
そこはリトル・ピープルが力を振るう世界であり、青豆がリーダーに問いかけたように並行的に存在する別世界があるのではなく、ある地点から世界がその在り方を変えてしまったということになります。
村上春樹がインタビューで答えしてましたが、9.11でワールドトレードセンタービルに飛行機が突っ込み崩壊する。
何度もその映像を見るうちに、そのビルが崩壊した世界に迷い込んでしまったような気持ちになってくる。
ポイントが切り替わって、列車は違う線路へと走り出す。
『1Q84』の最初のページに書かれた『It's Only a Paper Moon』の歌詞。
フィクションとリアル。
その狭間を揺蕩うような、この物語を象徴しているように思えます。
ここは見世物の世界
名から何までつくりもの
でも私をしんじてくれたら
すべてが本物になる
そうやって、現実の危うさを語りながらも、登場人物たちのフルネームがしっかりと語られている上に、地名まで現実のものが開示されている。
これは、村上春樹作品にとっては快挙と言っていい出来事ですね。
なんせ、「僕」「鼠」「街」みたいなふんわりした感じだったんですからね(笑)
「青豆雅美」「川奈天吾」「高円寺」「麻布」「千倉」「神奈川県大和市中央林間」とかだいぶ具体的です。
これだけ具体的な名前、地名を書いた理由を村上春樹はこう語っています。
罪を犯す人と犯さない人とを隔てる壁は我々が考えているより薄い。仮説の中に現実があり、現実の中に仮説がある。体制の中に反体制があり、反体制の中に体制がある。そのような現代社会のシステム全体を小説にしたかった。ほぼすべての登場人物に名前を付け、一人ずつできるだけ丁寧に造形した。その誰が我々自身であってもおかしくないように。
そういった大柄な物語にするには、2人称では寸足らずだったのだと思います。
『アフターダーク』で3人称用いた実験を行った上での『1Q84』の広汎な物語だったのでしょう。
⑤個性豊かな登場人物たち、そして善悪の彼岸
ちょっと難しいこと語りすぎて頭から煙が出そうですが、ちょっとリラックスして『1Q84』を語ると、今作も個性的な登場人物が続々登場しています。
ヒロインの青豆が暗殺者ってとこから、だいぶビックリ。
奥様が魔女どころの話ではありません。
天吾も、村上春樹作品の主人公にしては珍しくハイスペック男子で、小学生時代は数学の神童にしてクラスのリーダー。
ガタイが良くて、運動神経が抜群で柔道で高校の推薦をとれるほどの実力者なのに、うっかりティンパニーを叩いたら天才的で、でも今は小説を書いてそっちも才能あります!!てへぺろ☆って感じで天が5物ぐらい与えているハイスペ男子です。
廃スペ中年男のヒロ氏としては、うらやましい限りですよ?川奈さん。
ふかえりも強烈なキャラクターですね。
しゃべり方も独特で、特異な力を持った、美しい17歳の少女とかだいぶポップな感じがします。
天吾との絡みがめっちゃ面白かったです。
なんかやっぱりふかえりは、ドウタだったんじゃ・・・って思っちゃいますが、どうだったんでしょうね。
さりげなく退場してしまいますが、超重要キャラだけに寂しかったです。
まあ、村上春樹作品あるあるではありますが・・・。
牛河さんが僕より年下って、マジへこむっすわ。
しかし、『ねじまき鳥クロニクル』からのまさかの再登場で、BOOK3ではまさかの牛河の章が作られて、一気に出世頭になった福助頭界も神奈川県大和市中央林間に住んでいたことがあって、牛河さんのことが他人に思えませんでした。
できれば、タマルに「説得」される前に熱燗で1杯やりたかったところですが、最後はちょっと可哀そうでした。
牛河さんがふかえりに憐れまれる場面とか、なにか良かったです。
僕も、クラブでオールしてべろべろになって東急東横線に揺られて、渋谷から中央林間を寝過ごして2往復した挙句、9時ごろに目覚めたら対面に座っていた5歳ぐらいの女の子に不思議そうな目で見られていた時がありましたが、牛河さんもそんないたたまえれない気持ちだったのでしょうか。
その目はむしろ憐れんでいるように見えました。
筋金入りのゲイで、柳屋敷の用心棒のタマルも好きなキャラです。
青豆とのやり取りも、ずっと読んでいたいぐらい楽しいものでした。
村上春樹って改めて、会話のやり取りをリズミカルに描くの上手ですねー。
中野あゆみ、安達クミも好きなんですが、この2人ってなんかミステリアスな存在ですし、同一人物なの?ってな描写もありました。
安達クミが、1度死んでて首を絞められたとか言っているし・・・。
2人ともエロくて、明るいので僕は大好きです!!
そして、さきがけのリーダー。
今までだと、「悪」として描かれるべき存在。
ジョニー・ウォーカーさんや、ワタヤ・ノボルのように。
しかし、リトル・ピープルに巻き込まれて利用された存在として描かれていて、むしろ『羊をめぐる冒険』の鼠を思い出しました。
強大な力から、依り代として目をつけられてしまった存在。
これまでのような明確な「悪」として描かれなかったのは、林死刑囚の存在が大きかったのだと思います。
⑥青豆と天吾、愛の物語
小学生4年生の時に、手を握り合って一瞬のうちに心の交流を持った男女。
そのかぼそい糸を辿って再会する愛の物語。
『1Q84』はたくさんのピースが存在する物語ですが、最も重要な最後のピースは運命的な再会を果たす2人の男女の物語でした。
今回再読して『君の名は』を思い出しちゃいましたが、やっぱ新海誠監督って村上春樹的なフィーリングを持っていますよね。
この2人の恋愛物語的な部分に関して、村上春樹自身が『1Q84』は、『カンガルー日和』に収録されている『4月のある晴れた朝に100%の女の子に出会うことについて』を長くしただけの作品だと語っていましたが、それは全然違うやろって思いました(笑)
青豆と天吾。
2人が再会することは単なる昔からの恋愛の成就ということ以外に、2人が再会すること自体が、システムと神話性に対する、個人の運命の反撃という大きな意味を持っていました。
2人が再会すること自体が、規定された運命を変革することであり、『1Q84』と1984年で定められた理を個人の願いが破壊することであったのです。
この物語の素晴らしいところが、惹かれ合った少女と少年が大人になって求め合って再会するというおとぎ話が、リトル・ピープルなる世界を司る巨大な力を持った存在が規定した運命・世界のルールを否定する戦いになるというところだったのではないかと思います。
そこには大きな障壁と、試練がありました。
そして、レシヴァとしての天吾の力と、彼が書いている小説の力も大きく働いたのでしょう。
もしかしたらBOOK3は丸ごと天吾が書いたものなのかもしれなくて、本来は自死して再会できないはずだった青豆と天吾の運命を、物語の力で書き換えたようにも感じ取れました。
5、終わりに
いやー、まだ語り足りないなんだけど、まあこの辺でやめておきます。
アウトプットするために読後にもあれやこれやと考察していましたが、『1Q84』は村上春樹の最高傑作かもしれないと思いました。
テーマも明確でメッセージ性がありながらも、登場人物たちが魅力的で、物語として娯楽性がありかつ奥行きがある・・・。
最高じゃないっすかぁ・・・。
3人称で多くの視点で、多くの人物が関わった物語を書けたのも、作品に厚みが出てよかったと思います。
村上春樹なりの総合小説への試みは、大きな結実を結んだと言えるでしょう。
↓ブログランキング参加中!!良かったらクリックよろしくお願いします!!