1、作品の概要
2022年2月に刊行された6篇からなる川上未映子の短編集。
全篇書き下ろし作品。
パンデミック前夜の東京で紡がれる春のまぼろしのような物語たち。
2、あらすじ
①青かける青
21歳のわたしは、入院している病院から手紙を書く。
ーきみに会えたことはわたしの人生に起きた本当に素晴らしいできごとでしたー
②あなたの鼻がもう少し高ければ
地方から上京して大学に入学したトヨは、ファッションや美容のSNSにハマっていた。
その界隈のカリスマのモエシャンが企画する「ギャラ飲み」の面接に応募するトヨ。
彼女は面接会場でインパクトある外見のマリリンと出会う。
③花瓶
寝たきりの老女が語る、在りし日の秘め事。
世界では感染症によって何かしら良くないことが起きていて、彼女は夢うつつに家政婦に自分の性交を語る。
④淋しくなったら電話をかけて
次の仕事先も決まってない「あなた」は、町をあてどなく彷徨い続ける。
彼女は、運命的とも思えるほどの出会いをした好きな作家を、SNSを通じて攻撃し続けたいた。
そして、ある日その作家の自死をインターネットのニュースで知る。
⑤ブルー・インク
友達以上恋人未満。
よくある関係の2人だったが、彼女からもらった2通目の手紙を僕がなくしたことで2人の関係は急激に変化していく。
夜学校に忍び込んだ2人が見たものは・・・。
⑥娘について
作家志望のよしえは上京して小説家を目指して、後を追うように親友の見砂は1年後に上京して彼女と同棲し、女優を目指すようになる。
母子家庭のよしえと、富裕層の家庭の見砂。
見砂の母親のネコさんは独創的な人物だったが、見砂を徹底的に監視し、スポイルしようとしていた。
2人の道は分かたれて20年後、ネコさんが亡くなったことを知るよしえだったが・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
ツィッターで好きな作家の1人である川上未映子の新作が出たと知って購入して読みました。
正直、短編はそこまで好きでもないのですが、新型コロナウイルスのパンデミック前夜の東京っていう設定に心惹かれて、それと『春のこわいもの』という不可思議なタイトルに興味をそそられてこの本を購入しました。
まぁ、ジャケ買い上等のインスピレーション先行人間です(笑)
何だったら、人生において大切なこともインスピレーションで決めたりしていて。
でも、不思議と直感で決めた時ほどハズレはないような気がします。
『春のこわいもの』も僕の想像を超える迷宮の行き止まりのような物語でした。
4、感想・書評
村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』は神戸の震災の話を描いた作品だったのですが、直接的に書くのではなくて、それぞれの物語が間接的にその地震と関わっているような物語の進め方がとても印象的でした。
で。
『春のこわいもの』でも、新型コロナウイルスについてあえて直接的に触れないように「感染症」としながらパンデミック前夜の東京を描いているその手法が何か『神の子供たちはみな踊る』のそういった手法を踏襲しているように感じました。
村上春樹のノンフィクション『アンダーグラウンド』でもそうでしたが、何か大きな事件が起きて、その事件の前後で世界は変わってしまうのだけれども、その周辺にある小さな物語を描くというか、そもそも物語に大小なんてないというかそんな言語化し得ないフィーリング的な何かが今作にも流れていたように思います。
まぁ、アウトプットすることを目的に作ったこのブログがアウトプットできない何かがあるからフィーリングで感じてとか言うとレゾン・デートル(存在理由)が希薄になってしまいますが(笑)
そこは、素人ブログのご愛嬌。
世界が大きく変わってしまう前ののどかだった風景をあえて今描くということ。
問題の核心を描かないということ。
そのような『神の子供たちはみな踊る』的な手法を用いて、かの感染症を軸に物語を描いたということは今の瞬間でしか描くことができない時代の記憶のようなものを描きたかったのではないか、と僕は思いました。
んー、何か納得いく表現ではないのですか・・・。
ただ、そのあと世界はこの感染症のパンデミックによってその形を否応なしに変えてしまいます。
その狭間を、そして春という不安定で夢幻とまぼろしの季節を描いた危うい魅力を持ったこの作品に。
ただただ惹かれてしまうのです。
①青かける青
様々なものから隔離されて、閉鎖的な空間に居続けると現実からどんどん遊離し始めて、自分の存在さえ不確かになっていくのかもしれませんね。
21歳のはずの彼女は、もうすぐ戻るはずの現実社会に思いを馳せますが、春の夜の闇と病院の静けさはそういった確かなものまで形を歪めていくようです。
霞がかった朧月夜のように、現実は妖しく歪んでいきます。
②あなたの鼻がもう少し高ければ
美人のカフェ店員の目にトヨとマリリンが映っていなかったように、モエシャンや自分を綺麗だと思っている女性達にスルーされている2人。
トヨは下層にいる自分を意識していて抜け出したいと願っていますが、「自分の顔」の概念にも疑念を持ち、その相対性の不確かさに思いを馳せます。
他者が存在して始めて成り立つヒエラルキー。
もし、他者との比較ができない状況になってしまったら?
③花瓶
死と性はどこかで繋がっているように思える。
生命を誕生させる行為なのに、性交が死に近しい行為だというのは皮肉かもしれないけど、交尾(というか受精?)したあとに力尽きてしまうシャケのオスみたいにオーガズムの瞬間はどこか死を連想させる気がします。
もちろん死んだことはないから、あくまでイメージなのだけれど。
かつて彼女が忍んで性交した帰り道に死にたくなるような気持ちを味わいながらも、唇が赤く染まって身体は生命力に満ち溢れていた体験をしたように、時に肉体と精神は分たれて別々の方向へ向かっていくものなのかもしれません。
今は現実的には老いて死の床についている老女だとしても、精神だけは自由でたとえ表情や言葉にできなくても全盛期のあの頃のように思索を巡らせてどこへだって飛んでいける。
たとえ世界が感染症のニュースで不安に覆われて死の予感に包まれていたとしても、彼女の世界の全てであるその部屋が様々な存在に見捨てられてこの世の果てのような存在であっても。
彼女の唇が赤くなった初春の暖かい夜。
春の夜は、新しい生命の蠢きを感じると共に濃い死の影を感じてしまう。
再生を感じさせる季節だし、水蒸気で霞んだ月が不確かに夢幻のように鈍く輝くように感じます。
④淋しくなったら電話をかけて
拡がり始めている感染症が少しずつ社会を分断していく予兆を感じる。
マスクが売り切れて、マスク未着用の人間はそれとなく避けられて、ネット上では憶測が飛び交い、社会が不穏な空気に包まれていく。
そんな社会的な不安定さの中で、主人公の「あなた」のさらに不安定でどこにもたどり着かないような生活。
誰とも繋がっていない深い孤独。
その淋しさが共感していた作家に対しての攻撃に繋がっていく。
本当は誰かと繋がりたくて手を伸ばしただけだったのに。
⑤ブルー・インク
よくあるアオハルかよっ!!と、思わせながらも彼女のセンシティブさと後半の不穏な展開が作品に影をさしています。
考える→言葉に出す→文章に残す。
こういうプロセスを辿る時に、考えて想像したというだけでも自分の中で嫌な気持ちが残ることもあるのだと思うけれど、さらに言葉にすると相手の記憶にも自分の気持ちが言語化されて残ってしまう。
でも、記憶は良くも悪くも曖昧なものでうまくいけば都合の悪い出来事もどこかに流れていってしまうことがあるかもしれない。
でも、文章に残してしまえばそうもいかずに、客観的な事実として残り続けていく可能性があります。
彼女が自分の気持ちを文章に残すのを恐れるのはそういう理由からなのでしょうか?
そして夜のデッサン室で2人はそれぞれ何か違ったものに変貌していってしまったかのようでした。
昔、自殺した女性徒の影響を受けたかのように彼女は泣き続けて、主人公の僕はどこか暴力的で性的な妄想に強く囚われてしまいます。
学校が休校になって、世の中が変貌し始めた時に僕も何か異質なものへと変貌し始めたのかもしれません。
ゲシュタルト崩壊のように、彼女を認識して、探すことができなくなってしまった僕。
夜のデッサン室で彼に起こった出来事は、彼の心の中にある何か柔らかくて温かなものを奪っていったように僕には思えました。
おそらく2人の間にあった淡い恋心も春のまぼろしのように消えていったのかもしれません。
⑥娘について
母と娘の支配的な親子関係。
僕は男だし、2人の子供も男なのでそういう母娘関係ってあまり想像できないのですが、それが故に興味を惹かれるテーマでもあります。
しかしここでは見砂とその母親のネコさんが、見砂の親友であるよしえの視点で描かれているのが斬新でした。
部外者は踏み込めない家族が抱える暗い秘密。
見砂の姉のことは裕福で幸福な家族にとって薄暗い闇のような出来事になっていました。
裕福な家庭の見砂とネコさん。
母子家庭で自立せざるを得なかったよしえにとっては彼女らは眩しく見えたのでしょうか?
でも、自立して他者に頼らずに生きていけるよしえもとても逞しいと思うのですが。
それでも彼女らののどかな幸福に、嫉妬のようなモヤモヤとした感情を覚えていたよしえは見砂とネコさんに対して嘘をついて2人の運命をねじ曲げてしまいます。
よしえの母と自分の境遇と生活を、裕福でどこか危機感の足りない見砂とネコさんの母娘をマウントすることで肯定したかった、どこか鬱屈とした想いがよしえにはあったのでしょう。
見砂が地元に帰る前に交わしたネコさんとの電話の会話。
その最中によしえの胸の内に湧いたのはドス黒い悪意でした。
悔しいんだろうな。そう思うと自然と顔の下半分がにやけた。ネコさんが電話を握りしめてうなだれている姿を思い浮かべると、腹のあたりがむず痒くなって、思わず笑い声が漏れてしみそうだった。どれだけ金をかけても何にもなれない、あなたの娘がどれくらい愚かで、どうしようもないのか。こみあげてくる愉快さを追いかけるように、意地悪な言葉があとからあとからあふれて、それを喉の奥に待たせておくのが大変だった。ネコさんはまだ鼻をすすっていた。ネコさん、わかった?あなたの娘より、わたしの母の娘のほうがすごいんだよ。わたしの母の娘のほうが、すごいの。わかりましたか!!わたしはネコさんの鼻先に人差し指を立てて、はっきりとそう言ってやったような気がした。それは全身に鳥肌がたって、危うく身悶えしてしまうほどの快感だった。
でも誰かに向けた悪意は、まるでブーメランのように自分を傷付ける刃となって還ってくるものなのかもしれません。
20年経って音信不通だった見砂からの電話に、よしえはほとんど半狂乱になってしまいます。
よしえは、見砂が自分がついた嘘を、ありたっけ注いだその悪意を知っていて復讐しようとしていると確信しています。
もしかしたら、『淋しくなったら電話をかけて』で自殺をした作家とはよしえなのでしょうか?
一番身近で大事だった人に注いだ悪意は、インターネットの匿名の大海原からさらに増幅して大波のように彼女の精神を飲み込み、バラバラに砕いていったのかもしれません。
そして、その悪意を放った「あなた」も自身の悪意の波にさらわれようとしてるのでしょうか?
5、終わりに
この6つの物語が進行していた時期は、2020年の2~3月あたり。
遠い世界の出来事だった「感染症」が、暗い影のようにこの国に蔓延り始めて、現実を大きく変えてしまうその一歩手前の瞬間。
その変化はまだどこかよそ事で、現実感に乏しい春の夜の夢のようで、でも何かが現実を生活を侵食し始めている予兆のようなものがあった時期だと思います。
初春の不確かでどこかまぼろしのような不可解さ。
死と再生。
そのような不安定さの中で動き出す物語たち。
直接的に「感染症」と絡む物語ではありませんが、影を落とし始めたそれをまるでサウンドトラックのようにしてこの『春のこわいもの』の6つの物語は語られていったのだと思います。