1、作品の概要
『逆さに吊るされた男』は2017年に刊行された田口ランディの長編小説。
『文藝』2014年夏季号~2015年秋季号、2016年春季号に連載されていた。
作者の田口ランディが、地下鉄サリン事件の実行犯として死刑囚となった林泰男との交流を基に描いた物語。
2、あらすじ
引きこもりの兄が若くして突然死したことをトラウマに抱える作家の羽鳥よう子。
彼女は、知人の紹介からオウム真理教が起こした「地下鉄サリン事件」の実行犯で死刑囚となったYと面会し、以後15年間手紙と面会で交流するようになる。
マスコミから「キラーマシン」の異名を与えられた大量殺人犯のテロリストであるY。
しかし、彼は誰からも愛される人格者で、教祖の麻原にも、教団の方針にも疑問を抱いていた。
そんな彼が大量殺人をするに至った経緯はどんなものだったのか?
果たしてオウム真理教とは何だったのか?
よう子はYをはじめ、様々な人々との繋がりの中で驚くべき真実へと辿り着く・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
まわりにあまり田口ランディを読んでいる方はいらっしゃらないのですが、個人的にとても好きな作家で、大学生の頃にちょうど『コンセント』が刊行されて、大きな話題になり、めっちゃハマってました。
引きこもりの兄が突然死した体験を基に世界の真理に迫るような内容の作品で、スピリチュアル要素てんこ盛りで僕好みの作品でした(笑)
あと、田口ランディは、エッセイもめちゃくちゃ面白いんですよ~。
『ひかりのあめるふ島 屋久島』『スカートの中の秘密の生活』『縁切り神社』とかオススメですね~。
着眼点が独特だし、文章も面白いし、エッセイを読んでるとなんというか人との繋がりをとても大事にされる方なんだなと思います。
下ネタもてんこ盛りなところも魅力のひとつですねぇ(๑≧౪≦)
そんな田口ランディの最新作があのオウム真理教の死刑囚を描いた作品だと知り、あえてこの時期にオウムの事件を書いていることに逆に興味を引き立てられて読みました。
タイトルの『逆さに吊るされた男』と、タロットカードも暗示に満ちていてワクワク感を引き立てられましたねぇ。
そして、僕の想像と期待の斜め上をいくとんでもない物語でした!!
4、感想・書評
①パズルのピースを集める
地下鉄サリン事件の実行犯のYと関わることで、事件にのめり込み、飲み込まれていく主人公のよう子。
序盤はまるでノンフィクションのルポタージュのようで、Yとのやり取りを主軸として宗教家や作家などこの事件の闇に光を当ててくれそうな、パズルのピースを持った人たちと片っ端からコンタクトしていくよう子=ランディの姿が描かれています。
果てはY以外の元信者にまでコンタクトして、サティアン巡りまでしちゃうんですから彼女の行動力とバイテリティには本当に脱帽ですね!!
中には「オウム?」ってなっている方もいたりしますが、専門家だけではなくて宗教やヨガの専門家なども巻き込んでいる視野の広さが田口ランディの魅力だと思います。
そして、Yとの交流。
グーパー・ジャンケンで負けるとわかっていてグーを出して相手を救おうと願う優しすぎる男。
殺人マシンと呼ばれた大量殺人のテロリストからは想像ができない素顔。
よう子はそんな彼がなぜそんな大それたことをしたのか、なぜ逃げなかったのかを問いますが、Yはいつもその問いに納得いく答えを用意してくれずに彼との間に「沼」のような存在を感じていました。
しかし、ランディ色が強すぎてよう子のキャラクターはぼやけていますね(笑)
それだけ田口ランディの想いが物語に乗っかっていて、フィクションとノンフィクションの境目を行ったり来たりしているように感じましたし、そこがこの作品の面白いところのようにも思いました。
②オウムとは、麻原とは一体何だったのか?
今作は、オウム事件の当事者がY以外は全員実名で出てくるのでそこがまたノンフィクションな感じにしていますが、当事者から聞くオウム真理教の裏話や、実際に麻原が提唱していた修行の効果がどうだったのかをガチで検証していくのはだいぶ興味深かったですね。
そもそも2017年という事件から20年以上経った時期に地下鉄サリン事件と、オウム真理教について書いた作品を田口ランディが書いたということは僕にとって本当に興味深かったですし、あれだけの大事件を消化して自分なりの見解を添えて物語として書くにはそれだけの時間が必要だったのかなと思います。
最終章でほとんど自虐に近いような独白がありましたが、ああいった率直でイノセントな文章を書くのはとても誠実なことのように思いますし、本当に話題になりたければこんな時期に書いても全然注目されないのだから逆に田口ランディの誠実さを感じました。
事件の概要を消化して、掘り下げずに描けるタイプの作家もいると思いますし、ライターなんかだと求められるスピードは比べ物にならないぐらい早いのでしょう。
そうすることで、世間から求められる情報、物語を提供し、そして消費されていく。
時間をかけりゃいいってもんでもないですが、田口ランディがこの物語を描くのに費やした15年の意味を考えてしまう。
その葛藤や心境の変化を。
村上春樹がオウムを彷彿とさせるような宗教団体を描いた作品『1Q84』を刊行したのが2009年で、事件から14年の月日が経っていました。
作家が時間をかけて消化した何かを物語として表現する時、物語は作者単一の想像力と想いを超えて、多くの人達の願いや感情や想いを呑み込んで、とても重層的で熟成された深みのある物語へと変化しているように僕は思います。
熟成されたワインのように。
麻原が道を誤ったのはシヴァ大神のお告げを聞いてからで、なんとなくサカキバラ事件のバモイドオキ神を思い出しました。
何かを超越したくて、自分を超えていきたくて、自らが創造した神の指令によって本来自分が成し得なかったような行為をする。
そんなきっかけのように感じました。
③村上春樹『アンダーグラウンド』との対比、「目じるしのない悪夢」と「手がかりのない悪意」
この作品を読んだ時に真っ先に村上春樹『アンダーグラウンド』を思い出しました。
春樹も事件に衝撃を受けて、作家としてではなくインタビュアーとして被害者に寄り添いオウム真理教を、地下鉄サリン事件を消化しようとしたのだと思います。
僕はこの時の経験が時を経て『1Q84』に繋がっていったと思っています。
ただ、もし彼が田口ランディのようにオウムの内側の人間と繋がりがあったなら、また違った試みをしていたように思います。
(余談ですが、事件当時に村上春樹が住んでいた仮住まいが大磯で、よう子が作中で住んでいる場所が大磯です。ちょっとシンクロニシティーを感じてしまいました)
つまりオウム真理教という「ものごと」を純粋な他人事として、理解しがたい奇形なものとして対岸から双眼鏡で眺めるだけでは、わたしたちはどこにも行けないんじゃないかということだ。たとえそう考えることがいささかの不快さを伴うとしても、自分というシステム内に、あるいは自分を含むシステム内に、ある程度含まれているかもしれないものとして、その「ものごと」を検証していくことが大事なのではあるまいか。私たちの「こちら側」のエリアに埋められている鍵を見つけないことには、すべては限りなく「対岸」化し、そこにあるはずの意味は肉眼では見えないところまでミクロ化していくのではあるまいか?
はい!!
アンダーラインのとこテストに出ますからね~。
ってな感じで、まさに自分も含まれているかもしれないっていうか「私は遅れてきたオウム真理教信者だ」って言い出すぐらいの危うさで、こちら側のエリアの鍵を見つけてあちら側にガンガン入り込んでいったのが田口ランディなんです。
全然違う作家でお互いの著作は絶対に読んでいないと断言できるけど、なんだかシンクロしてるのが面白い。
唯一共通しているのは、「あちら側」と「こちら側」が好きな作家で、死生観も「死が生の中に含まれている」とか言っているところぐらいですね。
って、まぁまぁ共通点あるんじゃない?
私が『世界の終わりとハードボイルド・アンダーグラウンド』の中で「やみくろ」たちをえがくことによって、小説的に表出したかったのは、おそらく私たちの内にある根源的な「恐怖」のひとつの形なのだと思う。
私たちの意識のアンダーグラウンドが、あるいは集団記憶としてのシンボリックに記憶しているかもしれない、純粋に危険なものたちの姿なのだ。そしてその闇の奥に潜んだ「ゆがめられた」ものたちが、その姿のかりそめの実現を通して、生身の私たちに及ぼすかもしれない意識の波動なのだ。
いや、もう付き合っちゃえよ!!って言いたくなるぐらいに、この部分のオウム真理教と麻原の解釈には共通点があるように僕には思えます。
「シンボリックに記憶しているかもしれない純粋に危険なものたち」に値するように思いますし、それらの存在と関連しながら麻原は富士山の麓に拠点を構えます。
もうこの辺の点と線が縦横無尽に繋がりまくる感じがまさにランディ節で、脳内物質ブッシャァァァのひろっしーが眠れぬ夜の一気読み。
④彼女がたどり着いた答え
オウムや麻原については歴史や運命のような大きな何かが関与して作り上げた何かだったのでしょうか?
まるで導かれるように、その運命的な快楽に身をゆだねがらも自らの立ち位置を模索し続けるよう子。
『逆さに吊るされた男』とはYであり、よう子の兄であり、麻原でもあり、そして主神・オーディーンでもあった。
ものすごく大きなつながりとが示されたようにも思いますが、結局彼女がたどり着いたところはどういった場所だったのでしょうか?
村上春樹が『アンダーグラウンド2』で示したような約束された場所ではなく名前がついていないような空間だったのかもしれません。
答えがないままのような最終章のよう子の独白がそのまま答えのようでもあるように思えます。
彼女とYを隔てていたの「沼」とはどういったものだったのでしょうか?
兄とYを重ねていたのは?
「拒絶」「否定」などのメタファーだったのでしょうか。
5、終わりに
いやーーーーーーー。
中盤からの怒涛の畳み掛けは、やっぱりランディ節やなぁって、もうページをめくる手が止まりませんでした。
こんな作品は絶対に田口ランディにしか書けませんし、かの事件について想いを馳せました。
狂信的な宗教集団が起こしたテロ事件、って断ずると簡単だけどそれだけで良いのか。
もっと事件の闇の奥に、麻原の闇に光を当てようとしたのがこの物語だったのだと思います。
まるでシャーマンのように他人の意識を、想いを痛みとともに背負って物語として表現する田口ランディが好きです!!
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