1、作品の概要
2019年に刊行された長編小説。
自身の中編『乳と卵』のリメイクと、その後を描いた。
第73回毎日出版文化賞 文学・芸術部門受賞作。
2020年本屋大賞ノミネート。
2、あらすじ
第一部
東京で暮らす夏子のもとに、姉の巻子とその娘の緑子がやって来た。
目的は、巻子の豊胸手術。
巻子と思春期の緑子はその手術のこともあり、関係がギクシャクしていた・・・。
豊胸と生理。
2人の性についての想いと、愛情が交錯する。
第二部
8年後、アルバイトをしていた夏子は小説を出版して、文章を書いて生活することができるようになっていた。
編集者の仙川のはからいで売れっ子小説家・遊佐と出会い、自分の子供をAID(非配偶者間人工授精)にて出産したい とも想いが募っていく。
配偶者も恋人もおらず、セックスに対して強い拒絶感がある夏子。
AIDの当事者である逢沢、善との交流でAIDのデメリット・産まれてくる子供が幸せなのかどうかについてを激しく煩悶しながらも、自らの子供に会いたいという気持ちが強まっていく。
夏子が生命を産みだしたいという願いはエゴなのか?
生命とは?
3、この作品に対する思い入れ
好きな作家の1人である川上未映子さんの最新の長編小説。
ツィッターでも読了ツイートをよく見かけていて、ずっと読みたいと思っていました。
買おうか悩んでいましたが、図書館で見つけて即GET♪
『乳と卵』をベースに性と生について深く切り込んだ名作でした。
平野啓一郎『本心』の読後にこの物語を読んで、偶然とは言え強いシンクロニシティを感じました。
4、感想・書評
①生々しい性、男性目線からの呪いとしての女性の性
『乳と卵』『夏物語』の第一部を読んでいて、どれだけ女性の「性」が男性目線の呪いによって歪められているのかを強く実感。
僕は、別にフェミニストじゃないし、まぁ普通にエロいオッサンなんですが「豊胸」「生理」などの女性自身による「性」の話にとても生々しさを感じました。
でも、これって今まで女性の「性」を男性的な目線での都合のよい解釈でしか見ていなかったのだなと思いました。
思えば、ここ100年ぐらいの日本は男尊女卑の社会で「女性は男性の3歩後ろを~」とか言われて、貞淑という言葉があったり、とにかく夫が一日の家長で強い権力を持ってました。
お金さえあれば、明治、大正頃の男性は今で言う不倫もし放題だったみたいですね。
僕は介護の仕事をしていますが、社長夫人だった大正生まれの女性に「そりゃあなた浮気は10本20本の指ではきかないわよ!!」というお話も聞かされました。
当時は、一盗二卑三妾四妓五妻(いっとうにひさんしょうしぎごさい)ということばもありまして・・・。
男性が女性との性行為で興奮する順番を表したもの。盗は人妻、他人の彼女、婢は下女、家政婦、使用人、妓は遊女、娼婦、売春婦、妾は愛人、妻は正妻を表し、不道徳の度合いの高いほど興奮すること示す。
などどいう、だいぶクズい意味であります(^^;;
まぁ、時代もあるかとは思いますが男性の「性」がどれだけ横暴なもので、女性の「性」が男性目線・社会を意識したものであったのかを表していると思います。
しかし、近年社会のあり方や結婚、性の考え方に大きな変化があらわれて男性中心から変化が現れてきているのだと思います。
結婚とセックスと出産が幕の内弁当のようにセットになっていた時代が過去のものになろうとしているのではないでしょうか?
男女が等しく(というか女性の方が稼いでいることも多くなってきて)仕事をして収入を得ることも多くなってきて、男性が外で仕事をして、女性が家を守って家事と育児をするみたいな構図が崩れつつあります。
家族構成が核家族化していて、昔のように育児・家事を親や親戚に分担することも難しくなってきていて、女性にかかる家事・育児の負担が増えてきていると思います。
そのことが、離婚率の急増に繋がっていると思いますし、女性にとって結婚して出産するといったこれまで当たり前にされていた、いわゆる「女性の幸せ」とされていたことがその価値観自体がぐらつき始めているのかもしれません。
②生き方の違い。想いが交錯する。
現代の日本社会において、結婚・出産に関しての価値観が揺らぎ始めて転換点を迎えているのかしれません。
従来のような、結婚して、家庭に入って、夫と子供の世話をするといったような、画一化された「女性にとっての幸せ」も変化しているように思います。
『夏物語』は女性たちの物語ですが、その考え方・生き方はそれぞれに違っていて、夏子はある時には誰かの生き方に共鳴したり、またある時には他の誰かから自分の考え方を否定されたりと揺れ動きながら自分の答えを出そうともがき続けます。
編集者の仙川は、結婚をせずにアラフィフになっても一人暮らしで、仕事に情熱を傾けています。
仙川は、AIDによる出産を思いつく夏子に「なぜ自分の作品を生み出すことに集中しないのか?」と厳しい言葉を投げかけます。
もしかしたら、夏子に対して恋愛感情もあったのではないかとも思わせるような描写もあります。
誰よりも夏子の才能をかっていたし、彼女が自分の理解できない生き方を選んでしまうことに対して、寂しく置いていかれるような気持ちもあったのではないでしょうか?
仙川が夏子に寄せる思慕には、作家と編集者を超えたものがあり、ある種のシンパシーを含んでいたように思います。
売れっ子作家の遊佐はシングルマザーで、母親に手伝ってもらいながら娘の「くら」と暮らしています。
夏子にとって、大切な友人であり自分と近しい考えを持った存在です。
自分の一歩先を進んでいるような、ある意味でメンターのような存在でもあったのかもしれません。
「子供をつくるのに男の性欲にかかわる必要なんかない」
遊佐は断言した
「もちろん女の性欲も必要ない。抱きあう必要もない。必要なのはわたしらの意志だけ。女の意志だけだ。女が赤ん坊を、子どもを抱きしめたいと思うかどうか、どんなことがあっても一緒に生きていたいと覚悟を決められるか、それだけだ。いい時代になった」
遊佐に背中を押されて夏子はAIDへの関心を強めていきます。
善百合子は、夏子の「自分の子供と会ってみたい」という 仄かな希望に対して、真っ向からNOを突きつけます。
善百合子自身、AIDで産み落とされ、しかも父親とその他大勢の男達に幼いころから繰り返しレイプされて、自分が生きることに対しても「生まれてきたことを肯定したら、わたしはもう一日も、生きてはいけないから」と、否定的です。
生命を誕生させることは無謀な賭けで、無責任に産み落とされることでそのこどもは何かを背負わされる。
生命の誕生を暴力的なエゴに満ちた行為と感じている彼女の考え方は、夏子の子どもを産みたいという気持ちを揺さぶります。
「愛とか、意味とか、人は自分が信じたいことを信じるためなら、他人の痛みや苦しみなんていくらでもないことにできる」
善百合子から投げかけられたナイフのような、でも彼女自身の痛みを帯びた言葉。
夏子は様々な出来事を経て、その問いかけへの自分なりの答えにたどり着きます。
善百合子に出会って、その心に触れたからこそ、夏子は自らの考えと想いを深めることができたのだと思います。
元々、自我が強いタイプではなくて確固たる自分の考えがあるようにはみえない夏子ですが、様々な出会いと関わりのなかで自分が求めているもの、進むべき道を感じるようになります。
③産まれることは不幸なのか?私があなたに会いたいと願うのはエゴなのでしょうか?
とくべつな誰かに会うために、どうしてひとりではだめなのか。
そもそもなぜ、わたしたちは知りもしない誰かに会いたいと思うのか。
生むこと、生まれてくるとはどういうことなのか。わたしたちにとって最も身近な、とりかえしのつかないものは「死」であると思うのですが、生まれてくることのとりかえしのつかなさについても考えてみたいと思っていました。そして書き終わったいまでも、その思いはさらに深まり、わたしをノックしつづけています。
川上未映子さんのインタビュー記事ですが、「生まれてくることのとりかえしのつかなさ」という考え方にはハッとさせられました。
押し付けがましいサプライズみたいに仰々しく祝われて祝福されている「生」「誕生」ですが、その全てが幸せではなくて、劣悪な環境に産み落とされることもあるし、五体満足で生まれてくるかどうかもわからないし、知的に精神的に生まれながら障害を持っているかもしれない。
僕の長男は先天性の心疾患を持っていて、それはとても重度の障害なんですが、幸運にも現在ほとんど通常と変わりない生活をできています。
ただ、「根治」はしていても、「完治」はしていない状況で、治せるとこまで治したけど完全に通常通りの身体には一生戻ることはなくて(少なくなくとも現在の医学では)不安は拭えません。
そして同じ障害の子供達が亡くなったりしていますし、長男も将来的に飲み続けている薬の後遺症が出るかもしれない。
もし長男が自分の境遇に不幸を感じているのなら、僕たち夫婦は取り返しのつかない過ちを犯してしまったのでしょうか?
もちろん、僕はそう思いませんし、身勝手に生まれてくる子供も生まれたくて生まれてきたと思い込んでます。
それは、障害があってもなくても、劣悪な環境で生まれて不幸にも短い命だったとしても、生まれてきたことを後悔したとしても、あるいは不幸にも生まれることができなかった命だったとしても。
その命自体が輪廻の円環の中での学びを求めて、また周囲の人々にたちに自分の命を通しての気づきを与えることで、大事な役割を果たしているのだと思います。
仏教的な輪廻転生の考え方は好きですし、そういった意味で取り返しのつかない命を生み出すことはかけがえのないことなのだと思います。
まぁ、綺麗ごとかもしれませんが(^^;;
「わたしがしようとしていることは、とりかしのつかないことなのかもしれません。どうなるのかもわかりません。こんなのは最初から、ぜんぶ間違っていることなのかもしれません。でも、わたしは」
自分の声がかすかに震えているのがわかった。わたしは小さく息をして、善百合子を見た。
「忘れるよりも、間違うことを選ぼうと思います」
魂と心の命ずるままに。
衝動を忘れるより、自らの欲求に従って間違いだったかもしれない未来を選択する・・・。
そうやって生まれてきた命に対して抱く感情を、きっと私たちは愛と呼ぶのだと思います。
その赤ん坊は、わたしが初めて出会う人だった。思い出の中にも想像の中にもどこにもいない、誰にも似ていない。それは、わたしが初めて会う人だった。赤ん坊は全身に声を響かせ、大きな声で泣いていた。どこにいたの、ここにきたのと声にならない声で呼びかけながら、わたしは胸のうえでなきつづけている赤ん坊をみつみていた。
5、終わりに
川上未映子さんの作品は、ご本人のスタイリッシュなイメージに反して、とてつもなく泥臭いです。
でも、生きづらさを抱えながら必死に前を向いて進もうとする主人公の姿がいつも胸を打ちます。
泥濘の中をのたうちまわりながらも、自分の人生の中で核となる何かを掴む。
いつも、そんな物語を描かれているように思います。
僕も、決してスマートで平坦な道を歩んできた人生ではなくて。
でも、それなりに地を這い、泥を舐めながらも、この腕につかんできたと感じているモノがあって。
それは蜃気楼みたいに消えていくような不確かな真理なのかもしれないのだけれど、自分が導き出した答えに縋っていきたい。
そう思います。