1、作品の概要
川上未映子3作目の小説で、初の長編小説。
中学2年生の思春期の時期のいじめを通して、生き方、倫理観の問題を説いた。
2、あらすじ
斜視をからかわれて、二ノ宮たちクラスメイトにいじめを受ける「僕」。
ある日、机の中に「わたしたちは仲間です」と書かれた手紙を見つけ、差し出し主と公園で会うことになる。
手紙の出し主は、同じようにいじめられているクラスの女子、コジマで2人は手紙をやり取りするようになり、次第に距離を縮めていく。
夏休みに2人で出かけて「ヘヴン」の絵を観に行ったり、階段で話すことでコジマは自分たちの弱さの意味を知り、何をされても受け入れることで乗り越えていけると「僕」に話し、新たな強さを手に入れる。
一方、「僕」は百瀬に言われた「みんな決定的に違う世界に生きていて分かり合えないのだから、したいことをすればいい」という考え方に反発しながらも、心のどこかで惹かれるものを感じていた。
目の手術のことをきっかけにコジマと距離ができてしまい、待ち合わせた公園でも二ノ宮達に陥れられ、窮地に陥ってしまう。
果たして「僕」は、コジマのように全てを受け入れ続けるのか?それとも百瀬に言われたようにしたいことをするのか?
3、この作品に対する思い入れ
この作品が僕が読んだ初めての川上未映子の作品になります。
村上春樹との対談集『みみずくは黄昏に飛び立つ』を読んでから、ずっと興味を持っていました。
たまたま、ブックオフで目に付いたから買ってみましたが、いじめを題材にしてる作品で読みながらちょっと苦しくなり、映画『リリイ・シュシュのすべて』を思い出しました(^_^;)
ちなみに僕も子供の時に右目を怪我していて、失明しています。
目も、いわゆる「ロンパリ」状態なのですが、あまり気にしてません。
多分、鈍感でアホなんだと思います(笑)
でも、読んでて身につまされるというか、他人事とは思えない感じもありました。
4、感想・書評
①コジマとの手紙のやり取りと「ヘヴン」
酷いいじめを受ける「僕」はコジマとの手紙とのやり取りに安らぎを感じ、同じいじめられている環境もあり連帯感を感じます。
この時は、お互いのいじめられている境遇を話題に出すことはありませんが、お互いに確実に意識しています。
序盤は、いじめに耐えながらお互いの存在を支えに頑張っているという話の展開で、いじめは苛烈なのですが、手紙のやり取り・2人でいる場面はとても微笑ましく感じました。
ただこういった微笑ましさも、物語が転調するギャップを生み出す「明」の部分だったのかなと思います。
2人は、夏休みに絵を一緒に観に行きます。
あの絵ってシャガールだと思いましたが、どうなんだろ?(^_^;)
「その恋人たちにはね、とてもつらいことがあったのよ。とても悲しいことがあったの、ものすごく。でもね、それをちゃんと乗り越えることができたふたりなんだよね。だからいまふたりは、ふたりにとって最高のしあわせのなかに住むことができているって、こういうわけなの。ふたりが乗り越えてたどりついた、なんでもないように見えるあの部屋がじつはヘヴンなの」
安直かもしれませんが、コジマは暗に「僕」とそういうヘヴンを見つけて一緒に幸せになりたいと言っているように思います。
いや、もう今この瞬間2人でいることが「ヘヴン」だったのかもしれません。
タイトルにもなっている絵の「ヘヴン」は観ないままですが、コジマが「僕」の髪を切る場面がとても印象的でした。
ハサミで物を切ることで「標準」を感じ安心するコジマ。
「僕」はいつでも自分の髪を切っていいと言い、実際にコジマに自分の髪を切らせます。
その場面が、何というか一種のイニシエーションのように感じました。
自分の体の一部を切らせるって、なんだか儀式めいてますよね。
②コジマが考える受け入れる強さ
「ヘヴン」に行ったあと、夏休み中に2度目に会った時にコジマは父親のことを話して、「こんなふうな苦しみや悲しみには意味がある」と言います。
コジマの父親が仕事を頑張って、家族を想っても落ちぶれていった理不尽さ。
「僕」やコジマが何もしていないのにクラスメイトに虐げられる理不尽さ。
世界は、確かに理不尽さで満ちていると思います。
僕も子供には「世界は不平等で理不尽だけど、諦めずに考え続けることが大事」と言っています。
そこで絶望してしまっては先に進めないと僕は思います。
コジマは、自分たちがいじめられているのに耐え続けることでそうされなければたどり着けない場所にたどり着くことができるのだから、耐え続けることにも意味があるのだと言います。
クラスの人たちは何もわかってないし、自分の汚さは父親との連帯の「しるし」なのだと言います。
クラスの人たちは自分たちが何をしているかわかっていないから赦すというのは、まるでイエス・キリストがゴルゴダの丘で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と叫んだ場面を想起させます。
ラストシーンのコジマにも同じことを感じました。
こういうコジマの考え方も、一理あるかと思います。
自分の境遇を呪っても何も得るものはないし、暴力で解決しない、逃げることもよしとしないとすると、受け入れるしかない。
コジマは、その先の希望、「ヘヴン」を信じたのでしょう。
二ノ宮たちの暴力で怪我をした「僕」に対する態度も、どこかキリスト教的な宗教的なニュアンスを感じます。
汝の隣人を愛せよ。
③百瀬の考え方、決定的に違う世界に生きる
百瀬の存在はこの作品において、トリックスターやジョーカーのような雰囲気があります。
一人だけ、特異な雰囲気を持っていますし、謎が多いです。
百瀬の考え方は、コジマと対極にあります。
置かれている状況があるのはたまたまが重なったことで意味なんてない。
だから、自分の好きなようにすればいいし、世界はそうやって成り立っている。
基本的に、それぞれの世界は違っていて、分かり合えることはない。
ザックリ要約するとこんなところでしょうか?
中学2年生がこんなふうに饒舌に喋ってたらちょっと怖いですが、百瀬はしっかりと自分の考え方を言語化して「僕」に伝えます。
「僕」は百瀬に反論しますがことごとく論破されます。
そして、百瀬の話はどこまでも論理的で、「僕」も違うと言いたいけど、百瀬の言い分にも無視しきれない「何か」を感じています。
「僕がときどきだけどおそろしいと思うのはね、そこにある欲求だよ」と百瀬は言った。
「つまり生きることさ。生きてる自分からは誰も自分を守ってくれないからね」
もしかしたら、百瀬は百瀬なりの地獄を抱えているのかもれしれないと思わせる言い回しですね。
④僕がたどり着いた答えは?
最後の場面で、二ノ宮達にコジマと会っているところを目撃され(仕組まれていた?)ついには、百瀬のイデオロギー(二ノ宮に石を振り降ろし暴力で解決を試みる。したいことをする)と、コジマのイデオロギー(今の状況に意味を見出し、受け入れることでその先で何かを得る)のどちらを取るかの選択を迫られます。
結論から言うと、「僕」は結局どちらも選ぶことができませんでした。
コジマが服を脱いで裸になることで、皆が圧倒されて場が収まり(後で大問題になったのでしょうが)ましたが、主人公の「僕」は何も選べず葛藤するだけでした。
コジマが自分を虐げている人間達に一人一人歩み寄って頬に触れていく姿は、ある種の神々しささえありました。
まるで、殉教者のような自己犠牲。
コジマは自らのイデオロギーに殉じたのかもしれません。
僕は、何も選べずに事件を「通過」しましたが、14~15歳の年齢で何かを決定づけていくことが難しいことも多々あると思います。
彼は、保留した判断をこれからの人生の中でゆっくり考えて答えを出していくのだと思います。
その時に選択肢は2つではなくて、3つになっているかもしれない。
学校も行きたくなければ行かなくてもいい。
答えはたくさんあって制限はない。
そうやって視野を広げてみて、目を治した後に見た世界は。
美しさに、満ちていました。
僕は目をみひらき、そこにうつるものはなにもかもが美しかった。僕は泣きながらその美しさのなかに立ちつくし、そしてどこにも立っていなかった。音をたてて涙はこぼれつづけていた。うつるものは何もかもが美しかった。しかしそれはただの美しさだった。誰にも伝えることも、誰に知ってもらうこともできない、それはただの美しさだった。
これから、「僕」はどう歩んでいくのでしょうか?
自我を獲得し、自立するまで戦いは続くのかもしれません。
でも大丈夫、きっと歩いていける。
世界が輝いて美しく見えるうちは。
5、終わりに
軽い気持ちで読んでみたのですが、なかなか引き込まれました。
なんだか、義母との関わりも良かったですし、血は繋がってなくてもきちんと親子なんだと思いました。
この後、もし離婚したとしても、誰と暮らしていくかは一目瞭然でしょう。
先日『すべて真夜中の恋人たち』も買ったので、そちらも読んでみたいです。
ツイッター、FB、はてなブログで日々皆さんの書評を目にし、とても心を動かされて読みたい本が山のように増えています。
本当に感謝です。
ありがとうございます。
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