1、作品の概要
川上未映子の4作目の長編。
2011年刊行。
2、あらすじ
入江冬子は、フリーで校閲をして生計を立てている30代の独身女性。
これといった趣味もなく、人と繋がることも苦手でひっそりと日々を暮らしていた。
唯一、友人と呼べそうな人間は、仕事仲間で冬子とは反対に美人で主張が強い聖だけだった。
ほとんど、恋という恋も経験していなかった冬子だったが、偶然出会った三束さんに惹かれて彼との逢瀬の時間をたまらなく大切なものにかんじるようになる。
恋というにはあまりにひそやかな冬子の想いはどこにたどり着くのだろうか。
3、この作品に対する思い入れ
ヘヴンに続き、僕が読んだ2作目の川上未映子さんの作品になります。
タイトルがとてもよいですね。
すべて真夜中の恋人たち。
なんだかわかるようなわかんないような言葉(笑)
彼女の小説の主人公って決してメインストリームにいる人間ではなくて、とても頼りない存在なんだけれど、何だかとても必死で心の奥底で何かを探し続けて、求め続けているような印象があります。
時にとても痛々しいのだけど、繊細な感性によって描き出されたこの作品はまた僕にとって特別な作品になりました。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①自分の気持ちがわからずに自発的に行動できない冬子。
ツィッターや、ブログで書評などを見かけて気になっていた作品なのですが、通常の恋愛小説ってもう少し、劇的な展開があったりするのだと思いますが、主人公の冬子はどこまでも地味で恋愛経験自体皆無といってよい存在です。
彼女自身、色々と日々感じるかことはあるのですが、それをオンタイムで表現することが苦手で自分の殻に篭ってしまいがちです。
少し共感できる部分があるのですが、僕も何かしら起こった出来事に対して即時に言葉にして表現することが上手くいかない時があって時間をおいて考え直したり、文章にしたりするほうがより正確に自分の想いを表現できると感じることがあります。
そういった意味では、冬子は世間一般の人間とは違う時間軸の中で生きている人間であり、何かを表現したり理解した入りするのに時間がかかるタイプなのではないかと思います。
でも、世間一般では自分の意志をオンタイムではっきり伝えて、しっかりと自分を表現できる人間のほうが「個性的」で「しっかりしている」と理解されることが多いのではないでしょうか?
そうすることで、もしかしたら自分の気持ちや感じていたことの本質と乖離していっても、わかりやすく表現できる人間のほうがわかりやすいし、受け入れやすいのでしょう。
そいういった部分を抜きにしても、最初に勤めていた会社で飲み会などを断ったりしていくうちに孤立していき、居心地の悪い思いをするようになり、「何を楽しみに生きているのか」と揶揄されるようになります。
自己主張が弱く、何を考えているかわからない存在は、集団に置いて迫害されやすいですね。
冬子もそういうタイプで、会社に居心地が悪くなったところで、縁があり校閲の仕事で独立します。
②冬子と対照的な聖。聖は冬子に対して何を求めていたのか?
聖は冬子とは対照的なタイプで自分の言いたいことははっきり言うし、自分に自信があって、才色兼備な女性です。
恋愛に関しても奔放で、色んな男性と深入りせずに付き合っているような感じです。
仕事に対しても完璧主義で、相手にも高いレベルを求める聖は、冬子のコツコツとプロフェッショナルに仕事をこなす姿勢に好感を覚えて仕事上の付き合いだけではなく、プライベートでも距離を縮めていきます。
暗くて地味に見える冬子と、明るく華やかな聖。
一見するとちぐはぐな2人ですが、色々と色眼鏡で見られる存在であったのだろう聖にとって、フラットな目線で接してくれて、いつも自然体の冬子の存在は眩しく見えたのではないでしょうか。
それと、恭子さんが言った通り、自分の承認欲求を満たすために自分の存在を損得なしで肯定してくれる冬子は聖にとって段々と大きな存在になっていったのではないでしょうか?
終盤、三束さんとのデートの後で冬子に浴びせた罵詈雑言は読んでいて胸が痛くなりそうだした。
冬子の痛みもそうだし、そんなふうに言ってしまってこれまで何度も人間関係を壊してきていた聖の生きにくさみたいなものも伝わってきました。
冬子が自分から離れて言っていると感じて、存在の大きさに気付いて待ち伏せをしたり、付き合い方とか距離感の取り方が上手じゃないのでしょう。
冬子は聖の言うことを正面から受けとめて、三束さんへの想いと綯交ぜになって泣き出してしまいます。
あくまで、素直でピュアな冬子をみて聖も我に返って自分の気持ちを吐露します。
この時、初めて2人は腹の底を割って友達になれたのではないでしょうか?
女性同士の友情って、男性同士のそれと比べると複雑だし、いろいろと打算もあるように思える時もありますが、とても繊細で繋がりが強いように思えます。
江國香織さんとかそのあたりの繊細な関係を書くのが上手だと思いますが、僕は女性同士の繊細な友情を描いた作品が好きです。
この作品は、冬子と三束さんのひそやかな恋愛の他に、冬子と聖の友情も大事な要素なのだと思います。
③三束さんと出会って。光について。
学生時代も含めて恋愛経験がほぼ皆無な冬子。
高校生時代に少し仲良くなった水野くんと流れから体の関係をもってしまいますが、逆に言動を軽蔑されてしまいそれきりの関係になってしまいます。
それ以来、誰とも 深く関わらずに生きてきた冬子でしたが、偶然出会った三束さんに惹かれて、いつもの喫茶店で逢瀬を繰り返すようになりました。
2人の逢瀬の場面がとても好きで、まるで世界に2人しかいないような閉じられた空間の中で会話をかわして少しずつ距離を縮めていきます。
でも、恋愛というにはとてもプラトニックだし、静かでひそやかな感情が2人の間を流れていきます。
三束さんは、とても知的で物静かで包容力がある男性のように思えます。
会話も物理やクラシック音楽についてなど、あまり色気があるものとは言えずとても不思議な感じがします。
最後の場面で2人で食事に行きますが、それまでお互い喫茶店以外出かけたこともなく、お互い一定の距離を取りながら慎重に関わっているように思えます。
まるで臆病な2匹の野生動物のように。
冬子はそれまでの人生で何も選ばず、求めず空っぽのようにように生きてきて、三束さんもおそらく何かを抱えて生きてきたのでしょう。
高校の教師と嘘をついていたことなどの心苦しさもあったのでしょう。
全ては語られませんが、最後に冬子に出した手紙からそのことが伺えます。
2人の間では光についての話が度々出て、冬子は毎年誕生日に光にあふれた真夜中を散歩し、いつか誰かとその夜の中を歩きたいと願っていることを窺わせます。
昼の明るい光の中では目立たない、ひそやかな地上の星々が夜の闇の中で煌めいてまるで自分を祝福しているかのように冬子には感じられたのでしょうか?
たとえ、誰からも祝福されなくても真夜中の光は自分に対して輝いてくれている。
それは孤独の日々の中での慰めだったのだと思います。
真夜中は、なぜこんなにきれいなんですか。真夜中はどうしてこんなに輝いているんですか。どうして真夜中には光しかないのですか。
昼間のおおきな光が去って、残された半分がありったけのちからで光ってみせるから、真夜中の光はとくべつなんですよ。
④冬子が通り過ぎたもの。
とても繊細でプラトニックな冬子の恋は実らず、結局三束は冬子の前から去っていき、
2度と会うことはありませんでした。
人生で初めて誰かを真剣に誰かを求める経験は冬子を揺り動かし、今までとは違う地平に導いたのではないかと思います。
真夜中や、光、ショパンの『子守歌』など三束さんに繋がるいくつかの痛みと、だけどかけがえのない思い出を冬子にもたらして。
それらキラキラとした記憶の粒子の中で漂いながら冬子は進んでいくのでしょう。
聖と真正面から向き合ったことで、本当の意味での友人になれたことも大きな経験だったのだと思います。
わたしはいつのまにか、誕生日の夜だけではなく、ほかのなんでもない夜でも、それから昼でも、朝でも、家をでて散歩をすようになった。なんでもない光の中を、あの夜と同じような気持ちで歩くようになった。
わたしは三束さんのことを思い出して行きを止め、ふたりで話したことを思いだし、とてもすきだったことを思いだし、ときどき泣き、また思いだし、それから、ゆっくりと忘れていった。
最後にノートに書いた「すべて真夜中の恋人たち」という言葉。
これまで校閲という、人が手がけた文章に手を加える仕事で何かを生み出したことがなかった冬子の中のどこかから自然と溢れてきた言葉。
空っぽだったはずの冬子の胸の中に三束さんとの出会いと別れが、新しい光を灯した瞬間だったのだと思います。
失って通り過ぎたあとに見出した希望。
最後に感じさせた再生に生きていくことへの光を感じました。
5、終わりに
光の描写がとても綺麗だったり、繊細な心理描写や生きにくさなどをとても印象的な場面が多かったです。
感じが少なく、ひらがなを多く使った女性らしいやわらかな文章もすきです。
川上未映子さんのほかの作品も、また読んでみたいと思いました。
最近は、ランニングですが、僕も夜の散歩が好きで若い頃はよくブラブラ散歩をしていました。
地元が海の近くなので、外灯や、対岸の街の灯り、行き交う船の灯り、星と月の光。
夜の光は優しくてとても温かくて、気持ちが落ち着いて安らいだことを覚えています。
生きていく上で失っていくものも多いですが、そういった優しい光を心に感じながら、また前を向いて生きていくことが、きっとできる。
そういった川上未映子さんのメッセージが込められているように感じました。