1、作品の概要
1961年に刊行された後期の中編作品。
第16回毎日出版文化賞を受賞。
日本で2度、海外で3度映画化された。
「男でなくなった」老人限定で、薬で深く眠らされた娘と添い寝できる秘密の家の物語。
2、あらすじ
木賀老人から、「男でなくなった老人」に限定薬で深く眠らされた全裸の若い女性と1夜添い寝をできる秘密の家を紹介される江口。
他の老人たちと違って男としての機能を失っていない江口だったが、「眠れる美女」と過ごす一夜に魅了されて足繁く通いつめるようになる。
5夜で6人の美女の匂いや、肌触り、体の美しさを愛でるうちにかなしさや、老いへの恐怖を感じ、かつての肉欲の交わりなど様々な記憶の幻影に翻弄されていく。
女体を通して、江口の精神は「魔界」に誘われていく。
3、この作品に対する思い入れ
大学生の頃に実家に帰省した時に親父の本棚にあった川端康成の本を何冊かくすねたのですが、その中の1冊がこの作品でした。
『雪国』『古都』のように美しい自然を背景に、情緒的な人間模様を描いた初期作品が印象的ですが、後期の『みづうみ』『片腕』などの怪しげな幻想、魔界を表現した耽美的な作品郡も妖しく蠱惑的で『眠れる美女』もこれらの作品の流れを汲んでいるように思います。
20年ほど前に読んで、谷崎潤一郎とか三島由紀夫にも通じる耽美的な世界観を感じましたが、再読してみてさらなる魅力を感じました。
4、感想・書評
①江口が少女達を通じて想起させられる感情
6人の少女達と同衾し、その匂いを嗅ぎ、肌に触れて、美しく瑞々しい少女の身体に触れることで、江口は様々な感情にとらわれ過去の情事を思い出します。
男でなくなった老人達が少女、命そのものに触れることでよろこびとかなしみを思い、やがて自分もそうなっていくことへの恐れや諦めを感じます。
67歳というとまだまだな気がしますが、60年前の67歳は今より老いていただろうし、老人と初老の狭間のような年齢で瑞々しく美しい少女達の「若さ」前に自分の老いと、この少女達に対して他の老人達が感じたであろうかなしみを江口は感じていたのだと思います。
この作品を執筆していた頃の川端康成も60歳前半で、それはそのまま老いて美しくなくなっていく自分の不安と悲哀も込められていたのではないでしょうか?
この家をもとめて来るあわれな老人どものみにくいおとろえが、やがてもう江口にも幾年先かに迫っている。計り知れない性の広さ、底知れぬ性の深みに、江口は67年の過去にはたしてどれほど触れたというのだろう。しかも老人どものまわりには女の新しいはだ、若いはだ、美しい娘たちが限りなく生まれてくる。あわれな老人どもの見はてぬ夢のあこがれ、つかねないで失った日日の悔いが、この秘密の家の罪にこもっているのではないか。
1番目の少女から一瞬匂いたったように感じた乳の匂いから、過去の芸者からの激しい嫉妬や、愛人との情事で激しい睦ごとから相手の乳首のまわりが薄い血に濡れていたことが思い起こされます。
老年に差し掛かり情事にいそしむこともなくなった江口が忘れていた過去の激しい情愛が少女の匂いによって呼び起こされる・・・。
海の音が聴こえる淋しい一軒家で、自分の娘より若い美女の裸体を愛でながら過去に想いを馳せる。
少女との時間がまるで触媒のようにして遠い記憶を夢幻のように次々に老人脳裏に浮かんでいく・・・。
しかし、少女は決して目覚めないように強い薬を飲まされており、全ては江口の1人芝居で物言わぬ少女の前で様々な想いを巡らしていくその姿は何とも孤独で、侘しいものでありました。
実際に江口は何度か少女を揺り起こそうとしたり、悪を為そうともしますが思いとどまります。
2人目の妖婦のような少女を犯そうと試みますが、その少女がきむすめであることに気づき思いとどまります。
そうして、少女を優しく抱きしめながら優しく恍惚とした気分になっていきます。
寄せては返す波のように様々な想いが胸を去来し、過去の思い出が蘇ってくる。
この世ならざる非日常の空間(海の近くにある一軒家で決して目覚めぬ美女と一夜を過ごす)にあり、また少女たちが眠っていることもあり江口は徐々に自我を解放して自らの行き場のないやりきれない想いや、不安やおそれ、忘れかけていた過去の想い出たちを少女の肉体を通して思い起こしていきます。
まぁ、眠っている全裸の少女に触れたりしながら己の感情を高ぶらせたりしているのですからどう考えても変態的なのですが、少女の肉体の描写や、思い出の情景の描写がとてつもなく美しいので僕としては性的な生々しさはあまり感じませんでした。
事実だけ羅列すると生々しい出来事を美しい文章と卓越したイマジネーションで綴るとこんなにも純文学的に、芸術的な物語になるのだなと感じました。
三島由紀夫の『仮面の告白』を読んだ時もそう感じましたが、この2人の美的感覚はどこか相通ずるものを感じます。
②めくるめく幻想と美
『みづうみ』『片腕』もそうですが、今作も幻想的で徐々に夢と現の境目が消失してめくるめく幻想的な世界が現出し、読者を妖しい魔界へと誘っていきます。
この秘密の家の存在が既にこの世の果に存在しているような魔を湛えた存在であり、赤いびろうどのカーテンを見やりながら全裸の少女の身体を愛でる。
現世の理とは遠く離れた桃源郷のような場所にあり、現実と自我と記憶は融解し、5感は歪んだ夢想に捉えわれていきます。
また少女達の身体を仔細に描写しているように手の形や、乳房、肩のラインなどを執拗に観察する描写が続きます。
うん、変態(笑)
でも、まるで美術作品を愛でるかのように少女達の身体を愛でて、味わう江口の感覚は生々しく性的なものではなくどこか耽美的です。
川端康成は美術品を愛し、机にロダンの「女の手」を置いて四六時中凝視していたように女性の身体の美しさ、特に手などのパーツに対して強い愛着があったように思います。
四六時中、あの鋭い目つきで飽きもせず眺めていたようです。
それは、母親を物心が付く前に失ったことによりやがて喪われてしまうかもしれない存在を、肉体を永遠につなぎ止めて自分の手の内に収めておきたいというような強烈な願望があったのかもしれません。
一歩間違えればサイコパスですが、愛してやまない美しい存在を一つの作品にして閉じ込めてしまえばもう一生離れることはありません。
永遠に眺めていられます。
体の一部分を執拗に愛してしまうパーツフェチの人って、そういった心の空白が現出したものなのかもしれませんね。
川端康成の美にはそいうった妄執を感じます。
そういった妄執、満たされない想いがあれだけの美しさを湛えた文芸作品を生み出す原動力になったのかもしれません。
現実と過去の記憶が綯交ぜになり、美しい幻想を生み出す。
深く静かなかなしみにおそわれながら、どこか懐かしく安らいだ気持ちで物言わぬ少女と絡まり合って見る夢はどんなものでしょうか。
老人にとって若い命、その健やかな美しさとは滋養のようであり、抗えない魅力を湛えた光だったのかもしれません。
僕は介護の仕事をしていますが、そう言えば「あなたの若さを吸い取っている」とご利用者さんに冗談めかして言われたことがあります。
まぁ、僕はそう若くはないのですが(笑)
若さや命のきらめきは眩いものなのかもしれません。
「眠れる美女」の家で、江口は両の目ぶたに娘の腕をのせながら、浮かんでくる幻は咲き満ちた散り椿などなのか。もちろん、江口の末娘にも、ここを眠る娘にも、あの椿のようなゆたかさはない。しかし人間の娘のからだのゆたかさは見ただけでは、おとなくしくそいねしただけでは、わかるものでなかった。椿の花などとくらべられるものではなかった。娘の腕から江口の目ぶたの奥に伝わってくるのは、生の交流、生の旋律、生の誘惑、そして老人には生の回復である。
③魔界と滅びの美学
少女達の瑞々しい生命に触れて、心が温まり、まるで生命力の一端の光を分け与えら得ているようにも思えている江口でしたが、一方で昏く妖しい欲情や暴力性も頭をもたげます。
美しい文章と夢幻の世界。
生命の交流などの美しさの合間に暴力的で破滅的な衝動に江口は身を任せようとします。
物言わぬ、眠れる少女たちはなにも知りませんが、その衝動はギリギリのところまで江口を駆り立ててカタストロフィの影がちらつます。
絶望し悪を為すのにもエネルギー=若さが必要で江口の身内にその力は残されていませんでした。
少女達の美しい肉体は江口を幻惑し続け時に狂おしく、優しい気持ちにさせて彼の魂を激しく揺さぶります。
そして女性の身体の美しさや芳しい匂いやなめらかな肌は男を「魔界」とも言うべき狂気の極地に誘い続ける。
江口4人目の少女を犯し、人知れず自分の子種を残すことを思いつきます。
醜悪でおぞましい妄想です。
江口老人がこの娘にたいしてこの家の禁制をおかしてしまえば、いまわしくなまぐさいにおいがする。しかしそんなに思うのは江口も老いたしるしであろうか。この娘のようなこいにおい、またなまぐさいにおいこそ、人間誕生のもとではないのか。みごもりやすそうな娘である。深く眠らされているにしても、生理はとまっていなくて、明日中にめざめることにはなっているのだろう。もしたといみごもったとしても、娘はまったくなんにもわからぬうちである。江口老人も六十七歳で、そういう子どもをこの世に一人残しておくのはどうであろうか。男を「魔界」にいざないゆくのは女体のようである。
後半は様々な幻想が交わり暗闇に浮かび消えるイメージや血なまぐさい悪への欲求が不吉に鎌首をもたげます。
このあたり、少し文体や表現が変わってきているので、三島が代筆したのではないかとの噂もあるようですね。
実際に原稿の字が川端が書いた時より整っているらしく(笑)
まぁ、さすがにそれはないようにも思いますが、この時期の川端康成は睡眠剤の多用で弱冠精神的なバランスを崩していたらしくその影響もあったのかもしれません。
*この作品は新潮1960年1~6月号に掲載され、半年の休載を経て1961年1月号~11月号の全17回に連載されました。
悪虐の思いがわいてくる。こんな家を破壊し、自分の人生を破壊させてしまえ。しかしそれは、今夜の眠らせられた娘がいわゆる整った美女ではなくて、可愛い美人で白く広い胸を出している親しみのせいのようである。むしろ、ざんげの心の逆のあらわれのようである。怯懦に終わってゆくらしい生涯にもざんげはある。椿寺の散り椿をともに見た末娘ほどの勇気もなかったかもしれない。江口老人は目をつぶった。
希死念慮、破滅願望。
そして、この秘密の家で絶命した老人。
暗い死の影が色濃くこの家を彩り、まるで悪夢の終わりのようにこの物語はプツリと途切れてしまいます。
ひとつの悲劇とともに。
5、終わりに
今回、この作品の書評を書くにあたって川端康成の来歴を調べ直したりしましたが、様々な発見があり、作家の来歴と人生、作品を時系列的に時代背景とともに考えることはとても大事で、深くその作家の作品を理解することに繋がると思いました。
いや、別にフツーに直感的に読む読み方も好きですよ!!
元々、僕もそっちですし。
でも、ブログを初めてアウトプットを意識するようになって、また違った側面で読書を楽しめるようになり非常に充実しています。
これから川端康成の作品を改めて読み直したいと思いましたし、その交友関係特に三島由紀夫との交流は興味深いし、お互いの作品に与えた影響は大きかったのではないかと思います。
また、川端康成の芸術への関心、美術品の蒐集は彼の作品にとっての大きなこだわりで、その審美眼と「美」への執着が作品に大いに投影されたのだと思います。
昨年、愛媛県立美術館で川端康成の美術作品コレクション展があり、東山魁夷との交流も含めて彼の美的センスを垣間見る良い機会になりました。
これから、彼の作品は読み直してみたいですし、未読の作品も読んでみたいです。叙情的で美しい文体を持ち、卓越した審美眼を持つ世界的に有名でノーベル賞受賞作家・川端康成が生まれた日本に生まれることができて、僕はとても幸せを感じています。