1、作品の概要
初期の代表作で、新潮文庫版だけで338万部売り上げた。
1926年に『文藝時代』1月号、2月号に掲載され、翌年1927年に刊行された。
校正を梶井基次郎が担当した。
6度映画化され、NHK連続テレビ小説などでテレビドラマ化された。
『湯ヶ島での思ひ出』がもとになった。
20歳の学生である「わたし」と、踊子をはじめとする旅芸人の一座との爽やかな交流を描いた。
ほかに『温泉宿』『抒情歌』『禽獣』の3編が収録されている。
2、あらすじ
①『伊豆の踊子』
20歳の学生である「わたし」は1人伊豆の旅へと出て、旅芸人の一座と出会う。
彼らと旅を共にする中で、その自然な好意に孤児根性で歪んだ心を癒される「わたし」は、踊り子に仄かな恋心を抱くようになった。
しかし、別れの時は近づき・・・。
②『温泉宿』
とある山深い温泉宿の女中たち、酌婦たちは様々な事情を抱えながら日々を送っていた。
男勝りのお滝は、利発で世渡り上手な16歳のお雪を妹のように可愛がっていたが、温泉宿の手伝いをしていた中年男の倉吉に手籠めにされてしまう。
子供らに慕われながらも病床に伏せる酌婦のお清、温泉宿の女中から酌婦に身を落とし奔放に生きるお芳。
恵まれない境遇の中、必死に生きる女たちの運命が交錯していく。
③『抒情歌』
竜枝はかつて父母に背いてまで一緒に生活を共にして、将来を誓い合った恋人の「あなた」のことを想い続ける。
「あなた」は竜枝が母の逝去を機に実家に戻っている間に別の女性と一緒になり、しばらくのちに亡くなってしまっていた。
竜枝は、霊界や輪廻転生を語った抒情詩などを想い浮かべながら、「あなた」との再会を夢見る。
④『禽獣』
「彼」は舞踊を習いやがて舞踊界を催すようになった千花子の舞踊を観に行く道すがら渋滞に巻き込まれて、10年前に出会った彼女との日々を思い出す。
独り身の「彼」は鳥や犬などの愛玩動物を愛でながら結婚もせずに暮らしていた。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
先日、『伊豆の踊子』と同じく『湯ヶ島での思ひ出』がもとになった『少年』を読んで、『伊豆の踊子』にも触れる内容があったので読み返してみたくなりました。
中編ぐらいの長さだと勝手に思っていましたが、50ページもなかったんですね。
以前読んだ時は、ただ爽やかな自伝的青春旅小説だと思っていましたが、その陰に川端康成自身の肉親と生き別れる生い立ちが深く関係していたのだなと改めて感じました。
4、感想
①『伊豆の踊子』
自身が明かしているように、川端康成が19歳の時(作中の「私」は20歳だが)の一高時代に1人で伊豆を旅した経験が描かれています。
ほとんどそこであったことをそのまま書いたとのことで、実際に踊子のモデルになった加藤たみという女性もいて、淡い恋心を抱いたようです。
しかし情景描写のみずみずしさや、旅芸人の一座との交流により「私」の心に温かいものが注がれていく様が叙情的に描かれていて、情景が浮かんでくるようでした。
たとえばこの書き出しの文章なんかも、山の中での突然の雨の様子が伝わってきて好きな文章です。
道がつづら折りになって、いよいよ天城峠に近づいたと思う頃、雨脚が杉の密林を白く染めながら、すさまじい早さで麓から私を追ってきた。
「雨脚が林を白く染めながら、私を追ってくる」なんてなかなか思いつける文章じゃないし、冒頭の書き出しからグッと読者を引き込んでいきます。
フツーは「雨がいきなりめっちゃ降ってきた」ぐらいにしか書けないと思うんですけど(笑)
『雪国』でもあまりに有名な「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」という素晴らしい書き出しがありますが、夜の底が白くなるなんて、フツー思いつかないっす。
さすが川端康成やなぁ。
旅芸人の一座は行く先々で蔑まれていますが、「私」は(踊子に興味を持ったということもあるとは思いますが)彼らと交流し、旅を供にするようになります。
自ら「孤児根性」と称する、両親を、姉を、育ての祖父母を相次いで亡くし天涯孤独となってしまった悲しみ、そんな「私=川端康成」の歪み冷え切った心を、旅芸人の一座との交流が温めてくれるというのがこの物語の醍醐味だと思います。
また、『湯ヶ島の思ひ出』で書かれていたように、高等学校での寮生活が川端康成の精神を蝕み、自分を憐れむ念と、自分を厭う念に堪えられず、急に伊豆へと旅立ったという背景があったようです。
そのような傷心を抱えての旅路だったから、なおさら旅芸人の一座との交流や、踊子の純真無垢さが心に沁みたのでしょう。
14歳の踊子の無邪気な振る舞い、浴場での場面など性的なものを感じさせるものではなく、子供らしさを感じさせ「私」を微笑させるに至ります。
そんなふに心を許して、旅を供にした踊子とも別れの時が訪れます。
現代のように簡単にスマホで連絡先を交換などすることはできない時代。
旅先で知り合って別れるということは、今生の別れと言っても差支えのないようなものだったのかもしれません。
旅芸人の一座から大島へ遊びに来るようにも誘われていましたが、自分がそうしないこともわかっていたのでしょう。
(実際は、別れたあとも旅芸人の男とはしばらく文通をしていたようですが)
東京へと行く船の中での「私」の尋常ならざる悲しみ。
それは、やはり孤児であることの強い悲しみがもたらした寂寥感であったのだと思います。
真っ暗ななかで少年の体温に温まりながら、私は涙を出まかせにしていた。頭が澄んだ水になってしまっていて、それがぽろぽろ零れ、その後には何も残らないような甘い快さだった。
②『温泉宿』
山深い温泉宿の女中のお滝、お雪を中心に酌婦(温泉コンパニオンとか娼婦みたいな感じ?)のお咲、お清たち女性の悲しみや希望を描いた作品。
56ページほどの短さですが、それぞれに事情を抱えた女性たちの交錯する人生を生々しく描いた作品だと思います。
妻が若いころ、山奥の温泉宿で働いていたことがあったようですが、よくワケアリっぽい女性が働いていて、時には幼子を連れていたりもしていたようです。
現代でもそうなのですから100年前の田舎の温泉宿にはいろんな境遇の女性が働くために集まってきていたのでしょう。
彼女たち温泉の女中は酌婦を蔑みますが、お咲のように女中から酌婦に身を落としながらも、あっけらかんと力強く生きている女性もいて、底辺でもがきながらもそれでも這いつくばって生き抜く姿はしたたかで気高く美しくもあります。
お滝とお雪のまるで姉妹のような心温まる関係性。
『温泉宿』の中で希望を感じるような二人の親密なやり取りも、引き裂かれて聡明なお雪は恋情にほだされて道を踏み外してしまいます。
こういった生きることの儚さ。
運命に翻弄される女たちの悲しみ。
そんなのちの『古都』『虹いくたび』にも繋がっていくような要素を感じました。
③『抒情歌』
予知能力を持った神童というのはまさに川端康成の幼少のころですね。
初期作品には特に自己投影が多くみられるように思います。
竜枝は、失恋したあなたとの過去を想いながら神話的、心霊的な再会を夢見ます。
すでに亡くなってしまっているあなた。
輪廻の果てか、神話のなぞらえか。
草花に変化したあなたと私が蜜蜂の仲介によって受粉し、結ばれるある種狂気的で美しい空想。
女性の告白体は太宰治の作品の評価も高いですが、川端康成の作品もレベルが高く、『抒情歌』は荘厳ささえ感じさせられるような内容でした。
④『禽獣』
なにか川端康成の自己投影を感じさせられるような作品。
動物たちへの執着は、例えば川端康成の美術作品への執着に置き換えられているように感じました。
まるで生命への冒涜のような動物たちへの歪んだ愛情。
そんな生命への倫理観の欠如と、若き日の千花子への恋情の結びつき。
初めて出産をする母犬のとまどいと、心中を持ちかけた時の千花子の無垢な合掌。
そんな純粋さへの畏敬の念と、それでもそんなまっさらな純真さも無知蒙昧な愚かさによって失われていくという儚さへの寂寥。
禽獣たちとの日々と、危うく美しい千花子への恋情は重なり合い
混じりあっていく。
しかし、美しさも純真さもやがて変容し、グロテスクな何かに変わり果ててしまう。
そのような絶望と悲しみを描いた作品のように感じました。
5、終わりに
川端康成の20代後半、小説家としての初期に書かれた作品群ですが、儚く煌めく一瞬の光を描きながらも、主題には虚無や、喪失感が暗く大きな口を開けてそこに在るように感じました。
近代文学の作家で個人的に今一番、川端康成の作品に惹かれていて、彼の生い立ちや精神性、美への偏執が彼の文学にとってどんな影響をもたらしているのかを考えながら、今後もいくつかの作品を再読してみたいと思います。
やはり作家自身のライフイベント、作品の時系列などを考えながら、作品を読むのは発見も多く、物語の深奥に迫れるような心持がしてとても興味深いですね。
今後も拙いながら、川端康成の作品を読んでブログで感想を書きたいと思います。
最後に『伊豆の踊子』を読んでいるときに、なぜか『伊豆のロドリゴ』という脳内誤変換が何度も行われました。
「ロドリゴって誰やねん!?スペイン人かっ」っていう、孤独なノリツッコミが再三行われたことを末文に記したいと思います。
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