1、作品の概要
1948年に刊行された川端康成の長編小説。
1935年から断片的な断章が書き付けられて、13年をかけて最終的な完成に至った。
新潟県の湯沢温泉を舞台に山々や木々の美しい自然と、芸者の駒子との日々が語られる。
世界中で翻訳されて高い評価を得ている川端康成の代表作。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」の序文はあまりにも有名。
何度も映画、ドラマ、舞台になった。
2、あらすじ
東京に妻子を持つ島村は、登山をしに単身訪れた北国の温泉地で若く美しい芸者・駒子と出会い恋仲になる。
いつか終わらせるべき関係と分かりつつも、2度3度と駒子に会いに温泉地を訪れる島村。
清潔で献身的な駒子の愛情を受け止めながらも、葉子の悲しく美しい声にも心を動かされていく。
新緑が映える春、雪解けが始まる冬の終わり、雪がちらつく晩秋と、山村の美しい風景を舞台にそこに生きる人々の人生を描き出す物語。
3、この作品に対する思い入れ
初めて読んだのは大学生の頃だったでしょうか?
とにかく情景描写が美しく、駒子が澄んだ冬の空の下で三味線を弾く場面が強く印象に残っていました。
冬になると読み返したくなる作品のひとつですね。
今回読み返してみて、隠喩や、心理描写の妙に気づかされました。
4、感想・書評
①情景描写と「美」
国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。
序文がとても印象的で有名ですが、冒頭からとても美しい文章ですね。
「夜の底が白くなった」という表現も得も言われず、良いです。
夜の帳が落ちて、車窓からの景色が暗闇になり、却って雪の白さが引き立つようなそんな光景が短い文章で目に浮かんでくるようです。
『雪国』というタイトルですが、雪景色だけではなくて山奥の温泉地の美しい風景が川端康成の鋭い感性と端正な筆致で表現されています。
この表現の巧さの一端は、川端が芸術を絵画を愛していて、熱心な蒐集家であったことも関係しているように僕には思えるのです。
文章とそれによって想起されるイメージのリンクがとても直接的で、川端がまず明確な風景のイメージを脳内に浮かべていて、それを丹念に文章で描写していっていることが想像されます。
まるで画家が実際の風景を目にしながらスケッチをするように。
微に入り細を穿つとは、まさに彼の文章のことを言うのでしょう。
例えばこの文章。
月のない夜と星。
雪の凍りつく音とか、そんな表現考えるのは川端センセイぐらいのもんじゃないでしょうか?いぶした黒とか、星空の裾とか、簡潔なのに美しい表現にもう・・・。
一面の雪の凍りつく音が地の底深くなっているような、厳しい夜景であった。月はなかった。嘘のように多い星は、見上げていると、虚しい速さで落ちつつあると思われるほど、あざやかに浮き出ていた。星の群れが目へ近づいて来るにつれて、空はいよいよ遠く夜の色を深めた。国境の山々はもう重なりも見分けられず、そのかわりそれだけの厚さがありそうないぶした黒で、星空の裾に重みを垂れていた。すべて冴え静まった調和であった。
咲き乱れる白い花が秋の光に銀色に輝いて。
島村がどうこの情景に心を動かされたのか伝わってきます。
島村が汽車から降りて真先に目についたのは、この山の白い花だった。急斜面の山腹の頂上近く、一面に咲き乱れて銀色に光っている。それは山に降りそそぐ秋の日光そのもののようで、ああと彼は感情を染められたのだった。それを白萩と思ったのだった。
さび色って初めて聞きましたがな。
鮮やかな紅葉を過ぎて晩秋の山々の葉の色が暗くなっていたのが、初雪の白さでまるで生き返ったようにみえるっていう情景描写をわずか1行でサクっと表現する川端センセイがニクいです・・・。
杉の木が峻厳として、冬空に聳えている様を見事に描いています。
紅葉のさび色が日毎に暗くなっていた遠い山は、初雪であざやかに生きかえった。
薄く雪をつけた杉林は、その杉の一つ一つがくっきりと目立って、鋭く天を指しながら地の雪に立った。
いや、もうキリがないんでこのへんでやめますね(笑)
引用だけで、もう僕の書評なんて不要なんじゃないかってぐらいの情景描写の的確さと美しさ。
それに文章を書き写していて強く思ったのがその簡潔さですね。
無駄がなくて、読み手のイメージに視覚的に訴えかけてくるような美しい文章。
書き写していて、鳥肌が立ちました。
すごく文章が簡潔で、難しい表現もそれほど使っていないように思いますが、脳内にダイレクトに映像が送り込まれてくるようなこの情景描写の巧さは一体何なのでしょうか?
川端康成の『美』への執着のその秘密があるように思います。
熱心な美術品コレクターであった川端の審美眼と、研ぎ澄まされたイメージ。
その一端を垣間見た気がしたのが、2~3年前に愛媛県美術館で開催された『川端康成と東山魁夷展』でした。
たまには、愛媛でもいい感じの美術展やるんやで!!
ドヤァァァァって言いたい感じですが、この展覧会で川端文学における「美」のルーツについてを少し理解できたような気がしました。
画家の東山魁夷とも親交があったのも初めて知りました。
『古都』の口絵に東山魁夷の作品が使われたりもしていたみたいですね。
川端の美術コレクションの中に、草間彌生『不知火』なんかもあったりして、初期の草間作品をゲットしていた彼の慧眼に感服しました。
また、ロダンの手の彫像を何時間も飽きずに眺め続けたという、パーツフェチぶりには辟易(笑)
女性の身体に対しての描写が細かい理由に対しても頷ける気がしました。
もちろん性的なものだけではなくて、美にたいしての偏執であったのだと思いますが。
②妖しい夢幻の世界
初期の『伊豆の踊り子』のみずみずしさや、『雪国』でみられる叙情的な表現などが印象的に語られる川端康成ですが、後期の『みずうみ』『眠れる美女』『片腕』などはフェチ全開、変態全開の危うい作品になっています。
当時の文壇ではボロクソに言われた川端センセイですが、僕は後期の作品もめっちゃ好きですよ!!
心の闇とフェチシズムを強く感じられる作品群ですね。
んで。
その「魔界」が後期に急に(睡眠薬などの影響で)現出したのかというと、僕は違うと思っていて、例えばこの『雪国』に於いても「魔界」の萌芽は見られるように思います。
現実と幻想の境目が「美」によって取り払われて、夢幻の美しさが立ち上る・・・。
そんな危うい瞬間、描写がこの『雪国』においても見られるような気がするのです。
鏡の底には夕景色が流れていて、つまり映るもの写す鏡とが、映画の二重写しのように動くのだった。登場人物と背景とはなんのかかわりもないのだった。しかも人物はとうめいのはかなさで、風景は夕闇のおぼろな流れで、その二つが融け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。殊に娘の顔のただなかに野山のともし火がともった時には、島村はなんともいえぬ美しさに胸がふるえたほどだった。
当時では映画の2重写しという表現。
現代ではARみたいな?
現実の風景と、電脳空間を重ね合わせるような。
現実を歪めて自らの意にそうように変容させていくような・・・。
なにかそのような危うさが感じられます。
そのようにして生まれた光景はもはやこの世の理から外れた景色なのかもしれません。
③駒子の愛情と徒労
東京から来た金持ちのボンボンと若い芸者の道ならぬ恋。
そう言ってしまえばとてもチープでありきたりな島村と駒子の関係なのですが、島村はどこか気まぐれで投げやりで、激しい駒子の恋慕をのらりくらりと躱しているように見えます。
資産ある男性が妻以外の女性を愛することは、今よりおおらかでよくある話だとされていた時代。
当時には、一盗二卑三妾四妓五妻(いっとうにひさんしょうしぎごさい)などというけしからん言葉もあり。
男性の女性に対する楽しみは、一番は他人の妻を盗むことで、二番目は女中に手を出すことで、三番目は妾を作ることで、四番目は娼婦を買うことで、五番目にようやく妻を愛でること。
という意味だったらしいですねぇ(^^;;
当時の男性はみんなゲスの極みだったようですね・・・。
実際に大正生まれの、資産家の奥様だった女性などに聞くと「そりゃ、旦那には両手の指で足りないくらいに愛人がいたわよ!!」とか言われていましたね(^^;;
まぁ、そんな時代の出来事ですがさすがにそのまま続くわけもなく、駒子と島村の関係は常に終わりの関係を孕みながら続いていきます。
川端康成は、「島村は、自分ではなく、男ですらなく、駒子の鏡のようである」みたいなことを言っていたらしいですが、男ですらないわりには駒子を抱いています。
しかし、どこか謗獏とした有様からまるで現代の男性のようにもみえてきます。
とても希薄な存在です。
若い駒子の恋情は行きつ戻りつしながらも、島村に注がれていきます。
お酒の酔もありますが、破天荒な駒子の行動は全て島村への愛情と、彼の傍にずっといられるわけではないという葛藤によるものだったのでしょう。
島村はというと駒子の行動を『徒労』と評してはいますが、この言葉は献身や純粋さを表しているように僕には思えました。
まるで新雪のような駒子の純粋さや若さ。
そんな駒子の魅力と山里の自然な美しささになんとなく惹かれて、結局3年で3度も雪深い温泉宿に足を運ぶようになります。
④鏡による葉子と駒子の対比
「鏡」は作中に何度も登場する大事なモチーフ。
冒頭で島村が記者の中で初めて葉子に出会い、彼女の存在を認識するのも、汽車の窓が鏡のようになって夕景色と彼女の姿が写りこんでいたからであり、その後も繰り返しこの場面が想起されます。
どこか対照的な存在としても描かれる葉子と駒子ですが、葉子が汽車の窓に写ったようにこの世ならざる幽玄とした美しさを持った女性として描かれているのに対して、駒子は純粋さや清潔な美しさを感じさせる女性として描かれています。
島村はその方を見て、ひょっと首を縮めた。鏡の奥が真白に光っているのは雪である。その雪のなかに女の真っ赤な頬が浮かんでいる。なんともいえぬ清潔な美しさであった。
もう日が昇るのか、鏡の雪は冷たく燃えるような輝きを増して来た。それにつれて雪に浮かぶ女の髪もあざやかな紫光りの黒を強めた。
鏡が意味するところは何だったのでしょうか?
それは、①でも書いたように現実にある美しさを変容せていくひとつの舞台装置のような役目を担うものであったのではないでしょうか?
鏡は、合わせ鏡などにもあるようにどこか呪術的、霊的な意味合いも持っています。
現実のものと、そうでないものの境目としての存在で、鏡の中に映し出された現実は島村のあるいは作者の川端康成自身の夢幻の世界だったのかもしれません。
ラストの場面で火事場へと急ぐ2人の頭上に天の河がきらめいています。
恐ろしい艶めかしさですぐそこにまで降りてきて降りそそぎそうな天の河が、地上を写す鏡のように島村の影を写し取っているようです。
ここでは天の河が島村の幻想を写す鏡として語られているように感じます。
ああ、天の河と、島村も振り仰いだとたんに、天の河のなかへ体がふうと浮き上がってゆくようだった。天の河の明るさが島村を掬い上げそうに近かった。旅の芭蕉が荒海の上に見たのは、このようにあざやかな天の河の大きさであったか。裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして、直ぐそこに降りて来ている。恐ろしい艶めかしさだ。島村は自分の小さい影が地上から逆に天の河へ写っていそうに感じた。天の河にいっぱいの星が一つ一つ見えるばかりではなく、ところどころ光雲の銀砂子もひと粒ひと粒見えるほど澄み渡り、しかも天の河の底なしの深さが視線を吸い込んで行った。
駒子と葉子もお互いを写す鏡のように、どこか対照的な女性として描かれています。
駒子に対しては純粋さや生命力を感じさせる描写が多いですが、葉子はどこかミステリアスで悲しくどこか危うい美しさの描写が多く、まるで生と死を象徴しているようです。
葉子が死病を患った行男を看病していて、後半では亡くなった彼の墓に毎日通っているのもどこか死の影がちらつきます。
(どことなく村上春樹『ノルウェイの森』の登場人物の関係みたいですね。緑=駒子、直子=葉子、キズキ=行男、ワタナベ=島村の構図みたいな。)
『雪国』の駒子と葉子も、「生と死」「陰と陽」「朝と夜」のように対照的な存在として語られているように思います。
そうした葉子につきまとう死の影は、ラストの場面のカタストロフィへと繋がっていくように思います。
おそらくは火災の場を借りた身投げだったのでしょう。
燃えさかる繭倉から人形のように地面に身を投げ出してしまいます。
島村は葉子の身体が地面に落ちて命の火が消えようとしているその瞬間に、炎が彼女の美しい顔を照らすさまを見て、汽車の中でのともし火が写った美しくこの世ならざる姿を思い出し胸をふるわせます。
いや、ド変態の人非人ですね。。
そして、同時に駒子との年月がフラッシュバックしますが、おそらくこの事件を契機に島村の心は駒子から離れていったのでしょう。
5、終わりに
感想でまとめられず、書ききれませんでしたが作中で「音」と「色」のこだわりもみられて、様々な場面で美しい描写が多かったです。
印象的な場面が多く、本が付箋だらけになりましたね(笑)
駒子のモデルである小高キクが実際に『雪国』の物語のように川端康成の世話をかいがいしくしていて彼に恋情を抱いていたが、断りもなく小説のモデルにされて憤慨していたということがあったみたいですね(^^;;
川端康成は、島村のモデルは自分ではないと言っていたようですが、美に対する強い執着や、どこか人間関係が希薄な様子が川端康成を想起させるような気もしますが・・・。
小高キクとの関係を詮索されることを考慮してそのように言ったという説もあります。
今年も年末に大雪が降りましたが、雪が降る時期になる読み返したくなる名作です。
また時を経て読み返してみたいですね。