1、作品の概要
『百年の孤独』は、ガブリエル・ガルシア=マルケスの長編小説。
1967年に刊行された。
今作を主な功績として1982年にノーベル文学賞を受賞した。
日本では1972年に単行本が刊行された、文庫版は2024年6月に刊行された。
世界46言語に翻訳され、5000万部を売り上げた。
宿命的に孤独の翳を背負ったブエンディア一族と、マコンド村の栄枯盛衰の100年の物語。
2、あらすじ
ホセ・アルカディオ・ブエンディアと、ウルスラ・イグアランは近親者でありながら結婚をし他の若者と連れ立って2年の放浪の後に、ホセ・アルカディオ・ブエンディアが夢に見た地に辿り着き、マコンドと名付けた。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアは族長のような役割を担い、小さな村は徐々に発展していきブエンディア家は地元の名士のような一族になっていく。
100年という時間の中で繰り広げられるブエンディア一族とマコンドの栄枯盛衰。
近親婚を繰り返し、複雑になっていく家系図、拭いようのない孤独の翳、そして破滅的にもたらされる死・・・。
日常と、非現実的で魔術的な場面が交錯しながら一族の運命は、羊皮紙に書かれた終末へと向かっていく。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
まずは、キッカケのキッカケですが、そもそもガブリエル・ガルシア=マルケスという作家に対して興味を持った理由は、村上春樹が最新作『街とその不確かな壁』でめずらしく引用した作品が、ガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラ時代の愛』だったからでした。
作中で語られたガブリエル・ガルシア=マルケス特有のマジックリアリズムという手法。
現実の中にふいに超現実がさりげなく出現する物語の展開の仕方。
そして、51年9か月と4日待ち続けてある一人の女性の愛を勝ち取った男の物語というところに惹かれました。
『コレラ時代の愛』の読了後、次に読んでみたいと思った作品がガブリエル・ガルシア=マルケスの代表作『百年の孤独』でした。
Xでフォローさせて頂いているかたも『百年の孤独』を推している方が多くて、いつか読みたい本でした。
ちょいちょい図書館で借りようとしていたのですが、読もうとした時に在架していなかったりして、そんな時に文庫化のニュースと、友人から一緒に読もう!!とのメールがあり文庫で買って読むことを決めました。
思った以上に『百年の孤独』の文庫化が盛り上がり、初版でまさかの重版で、僕が発売日に手にした本も2刷目でした。
素晴らしい!!
出版不況、本離れが嘆かれていますが、こういう盛り上がりを感じられることは嬉しいですね。
4、感想(ネタバレあり)
①神話としての『百年の孤独』
さてさて。
いや、どこから書いたらいいんでしょうかね(笑)
とんでもない濃密な100年の物語を通過し、『百年の孤独』をどう表現していったらいいか迷っています。
それでも徒然なるままに書き進めると、大きな印象としては神話が思い浮かびます。
自由奔放に振る舞う神々と、わりとどえらい事が起こっているのに淡々と進んでいくのが印象的でした。
『百年の孤独』もブエンディア家の人々がとても奔放に生きて、そしてどえらい事件が起こるのにフツーに物語が進んでいくことに、神話的ななにかを感じました。
サーガ。
ブエンディア、マコンドサーガ。
壮大な百年の物語。
神話ってなんやねんって思い返すと文字通り神様の話でありながら、その土地土地の風土を顕した物語群なのではないかと思います。
1828年~1928年にラテン・アメリカ、コロンビアで起こった出来事。
錬金術、ヨーロッパ文明との交流、内戦、汽車などの文明の進歩・・・。
それらの出来事が、実際に起こったかもしれない事件と、超現実的な空飛ぶ絨毯や亡霊などとと溶け合ってガブリエル・ガルシア=マルケス的な神話の物語群になっていく。
そう、ガブリエル・ガルシア=マルケスという作家は、『百年の孤独』という名の神話を創作したのだと思います。
えっ、神話作っちゃったの?マジ?すごくね?って感じです。
神話であるために、100年の時間、土地、風俗を表現するためにはたくさんの物語が必要だった。
だから、多くの登場人物と多くの物語が必要だったのでしょう。
そうやって完成させられた多くの重厚な物語の曼荼羅は、時空も場所も超えて彼の地、彼の時へと読むものの精神を誘うように感じました。
②一族の「孤独」とは?
タイトルにバーンと「孤独」と掲げられていて、いろんな変人奇人のオンパレードのブエンディア一族(もらわれっ子含む)ですが、共通する要素が「孤独の翳」であるということです。
えっ、孤独?大家族で乱痴気騒ぎしてたりもしてて、どこが孤独やねん?
とか、思いましたが読みながら「孤独」よりむしろ「孤絶」に近い気がしました。
「孤絶」とは、一つだけ離れて取り残されていること、世間とのつながりがなく孤立していること、です。
ただ、「孤独」の意味を調べ直してみたら、以下のようにありました。
たとえば、物理的には大勢の人々に囲まれていても、自分の心情が周囲の人から理解されていない、と感じているならば、それは孤独である。当人が、周囲の人たちとは心が通じ合っていないということに気付いていれば孤独である。たとえ周囲の人々の側が、その人と交流があると勝手に思っていても、当人が、実際には自分が全然理解されていないと気付いていれば孤独である。
あっ、これめっちゃブエンディア一族風味やん。
やっぱり孤独でいいんですね。
アウレリャノ・ブエンディア大佐が3メートル以内に家族すら近づけさせなかったように、ホセ・アルカディオが謎の自死を遂げたように、自分の心情が周囲に理解されていない分かり合えないと感じているのでしょう。
そんな「孤独の翳」が一族の共通項だとしたら、ちょっと寂しい感じの一族ですが・・・。
③アウレリャノ、ホセ・アルカディオ、レメディオスに象徴される繰り返し
家系図を57回ぐらい繰り返し読まないと、とてもじゃないけどよくわかんなくなるのが『百年の孤独』ですが、同じ名前が繰り返し出てきているところが、余計にややこしさを増長させています。
アウレリャノ・ブエンディア、アウレリャノ・セグンド、アウレリャノ・バビロニア、アウレリャノ・ホセとかややこしいのに、さらに17人の大佐の落とし種が全員アウレリャノ・・・。
アウレリャノだけで、25人ぐらい登場します。
いや、ええ加減にしいや(笑)
アルカディオ、レメディオスも何人も出てきます。
これは作者の意地悪?
それとも土地柄そんな感じで同じ名前をつけたりするのか?
訳者のあとがきにもありましたが、「繰り返し」を意識しているのではないかと思います。
近親者での交わり、冒険と放浪、恋と死、そして豚のしっぽ。
そもそも最初の者・ホセ・アルカディオ・ブエンディアの前からウルスラの叔母の1人とホセ・アルカディオ・ブエンディアの叔父の1人が結婚して豚のしっぽを持つ子供が生まれたという話も、最後の者・アウレリャノが豚のしっぽを持って生まれてくることへの伏線であり、100年以上の時を経ても一族は同じことを繰り返しているという証左であると思います。
それは血脈の呪いを感じさせるもので、いつの間にか一族の者たちを袋小路へと追い詰めていきます。
④マジックリアリズム。現実の中に突然現出する魔術的瞬間。
生活の仔細まで描いたリアリズムの風景の中に、するっと現れる魔術的瞬間。
いわゆるマジックリアリズムですが、『百年の孤独』においても伝家の宝刀・マジックリアリズムが炸裂しまくっています。
いや、マジックリアリズムって言いたいだけやん!!って思われるかもしれませんが、なんか手触りがいい言葉で気に入ってます(笑)
マジックリアリズムって、ガブリエル・ガルシア=マルケスが発見した手法なのかと思いましたがそうではなくて、ドイツの写真家フランツ・ローって人が開祖みたいですね。
文学だけではなくて、芸術全般に言われる手法みたいです。
ちなみにwikiさんはこう言ってます。
魔術的リアリズム(まじゅつてきリアリズム)は、日常にあるものが日常にないものと融合した作品に対して使われる芸術表現技法で、主に小説や美術に見られる。幻想的リアリズム、魔法的現実主義と呼ばれることもある。魔術 (magic) の非日常、非現実とリアリズム (realism) の日常、現実という相反した状態が同時に表すこの技法はしばしばシュルレアリスム(超現実主義)と同義とされることがあるが、魔術的現実主義は、シュルレアリスムと異なり、ジークムント・フロイトの精神分析や無意識とは関わらず、伝承や神話、非合理などといったあくまで非現実的なものとの融合を取っている手法であるとされることもあるが、先行する芸術作品の影響はやはり顕著である。
ちなみに日本でのマジックリアリズムの使い手(なんか必殺技か、拳法みたいになってますが)は、阿部公房を嚆矢とし、大江健三郎、中上健次、阿部和重、そして我らの村上春樹らがいます。
彼らはガッツリと、ガブリエル・ガルシア=マルケスパイセンの影響を受けているらしいっす。
たしかに村上春樹の作品でもリアリズムで展開してたのに、ドアを開けたら羊男がいたりとかマジックリアリズムが炸裂してますね。
リアルな日常の中に、魔術的な非日常が同居しているのがとても興味深いです。
『百年の孤独』でも、冒頭からホセ・アルカディオ・ブエンディアが槍で突き殺したプルデンシオの亡霊がうろつき、最後には仲良くなっちゃたりしますが、だいぶ普通にうろうろしているのがマジックリアリズム的です。
その他に、空飛ぶ絨毯が飛んでたり、自殺したホセ・アルカディオの血がウルスラの元まで流れて行ったりちょいちょい「いやいや、ちょっと待て」って感じで自然な感じで魔術的な瞬間が挿入されているので油断できません。
真面目な話をしているのに、唐突に下ネタをぶち込んでくるヒロ氏のマジックエロリズムのようです。
そんなマジックリアリズム的瞬間で一番印象的だったのが、レメディオス(小町娘)の唐突な昇天です。
一族の中でも超絶美人で、多くの男を惑わし、命を落とすものが多く、死神のように評されていましたが、ある日突然干していたシーツとともにふわりと舞い上がり、そのまま昇天。
普通にひらひらと手まで振ってて、「えっ!?」って3度見ぐらいした瞬間でした。
天使過ぎて天に還っちゃった?
レメディオス(小町娘)は知的障害を持っていたのかな?と思わせるような描写もあり、近親婚を繰り返すということのリスク(豚のしっぽ)を暗示しているようにも思えました。
⑤ホセ・アルカディオ・ブエンディアが見た夢。羊皮紙に書かれた予言。蜃気楼の町。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアがマコンドに街を作ろうとしたキッカケになった夢。
その晩、ホセ・アルカディオ・ブエンディアは鏡の壁をめぐらした家が立ちならぶにぎやかな町が、この場所に建っている夢をみた。
はい、ここテストに出ますからね~。
じゃなくて、物語の週末に、マコンドの消滅に関わってきます。
鏡の(蜃気楼の)街、マコンド。
そもそもマコンドは実在した街だったのでしょうか?
メルキアデスが羊皮紙に書いていた文章。
ふたごが解読を試みたこともありましたが叶わず、結局アウレリャノ・バビロニアがカタルーニャから来た本屋での知識で、羊皮紙がサンスクリット語で書かれたものであることを理解し、さらに暗号を解読していきます。
ちなみにこの羊皮紙のタイトルは・・・。
〈この一族の最初の者は樹につながれ、最後の者は蟻のむさぼるところとなる〉
という、心躍るものでした。
いや、どんだけ悲惨な一族。
でもこの言葉が一言一句違わず現実のものとなるのですよね・・・。
メルキアデスの羊皮紙には、一族の者がどういった経緯を辿るのかこと細かく書かれていました。
ホセ・アルカディオ・ブエンディアが最初の者ではありますが、海賊フランシス・ドレイクがリオアチャを襲撃した時から、この一族が「いりくんだ血筋の迷路のなかでふたりがたがいを探りあて、家系を絶やす運命をになう怪物の産むためだったと悟った」と書かれてあり、16世紀の時点からこの破滅的な終末へと向かうために脈々と血筋が受け継がれていったのだと思うと、壮大さに身震いがようでした。
また、百年の孤独を運命づけられた家系は二度と地上に出現する機会を持ちえないため、羊皮紙に記されている事柄のいっさいは、過去と未来を問わず、反復の可能性のないことが予想されたからである。
ここまで反復されていた一族の出来事。
もう2度と反復はなく、孤独の翳を持った一族は徹底的に絶えてしまったことが窺えます。
マコンドはホセ・アルカディオ・ブエンディアが作った街ですが、ブエンディア一族の血筋が絶えたことで暴風で廃墟と化し、蜃気楼の中消え去ってしまいます。
そうなると、マコンド自体本当に存在していたのか?
ブランキー・ジェット・シティ的な架空の街だったのかもしれないとも思ってしまいます。
蜃気楼の街。
幻影の中に終末を迎える一族。
100年の物語の、その圧巻の終わりに圧倒されました。
5、終わりに
いやー、重厚で素晴らしい作品でした。
まさにサーガ。
100年の奇特な一族の数奇な運命と終末。
圧倒される想いでした。
余談ですが、同じく100年の時と一族の数奇な運命を描いた江國香織『抱擁、あるいはライスには塩を』を思い出しました。
もしかしたら、江國さんも『百年の孤独』に影響を受けてこの作品を書いたのかな?とも思いました。
まあ、物語の内容は全く似ても似つかないのですが・・・。
それと年代記(クロニクル)でありながら、あえて詳しい年を記載していないのは確信犯的な感じがしました。
時の流れがすごく曖昧に描かれていて、子供がいつの間にか成長し、老いもある時に急に自覚される。
この独特な時間の流れ(いや、流れていたかどうかさえ疑わしいかもしれない)も、『百年の孤独』にかけられた魔術のように感じました。
解説を書いた筒井康隆がガブリエル・ガルシア=マルケス『族長の秋』も読まねばならぬ、いや読めとおっしゃっていますので、またこの作品も読んでみたいと思います。
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