1、作品の概要
『くるまの娘』は宇佐見りんの長編小説。
2022年5月に刊行された。
『文藝』2022年春季号に掲載。
160ページ。
野間文芸新人賞候補作。
暴力的な父と脳梗塞の後遺症を患うアル中の母の影響でバラバラになってしまったある家族の姿を描いた。
2、あらすじ
暴力的で自分の理想からはみ出す子供たちに冷徹な父と、脳梗塞の後遺症を患い感情のコントロールができなくなってしまった母。
兄と弟は家を出たが、17歳のかんこは家にとどまり苦しみながらも生き続けていた。
果たして家族の愛情とはどういうものなのか?
家族を捨てて、逃げ出すことが正解なのか?
祖母の葬儀で久しぶりに集まった5人の家族。
誰が加害者で、誰が被害者か。
かんこは複雑に絡み合った愛憎、終わりのない地獄で一筋の光を見る。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
以前から読みたかった宇佐見りんの最新作『くるまの娘』を図書館で見つけて読みました。
『かか』でデビュー、『推し燃ゆ』の芥川賞受賞が話題になった若い作家ですが、今作でも家族を独自の視点で描いていてとても興味深かったです。
4、感想(ネタバレあり)
一人称の視点から独自のリズミカルな文体で書かれていた『かか』『推し燃ゆ』と違って三人称の視点で、ひとつの家族を描いたのが『くるまの娘』でした。
宇佐見りん本人のインタビューでもありましたが、家族を壊している父母のような存在のバックグラウンドが描きたかったというのがテーマのひとつであったみたいで、それをするには三人称の視点が描きやすかったとのこと。
たしかに暴力的で、自らの意にそぐわないものに冷徹な父にも、祖母にないがしろにされて愛されなかったり、帰ってこない祖母に苛立つ祖父から暴力を受けていたという悲惨な過去がありました。
もちろんだからと言って自分の子供に対して同じように振舞っていいはずはありませんが、父は自分が苦境から抜け出すために並々ならぬ努力をして勉強をしたその成功体験から、子供たちにも同じような苦労と努力を求め、意にそぐわないとどこまでも冷徹になりました。
自分が苦労した経験があって、子供たちに「同じような苦労をして乗り越えて欲しい」のか「同じような苦労はさせたくない」と感じるのかはどちらも愛情であるのかもしれません。
修行のような勉強の時間も、暴力や暴言も、父の愛情から出たものかもしれませんが、幼児期の傷や暴力を振るわれた経験が起因しているのも事実でしょうし、子供たちには傷として残りました。
そして暴力の種子は、かんこにも受け継がれています。
「虐待された子は虐待する」という暴力と虐待の連鎖はよく言われるところですが、かんこが父の背もたれを蹴り上げる場面でその心理がとてもうまく描写されていました。
背もたれをけることもまた暴力であるということだった。そして、それが発露する瞬間、かんこはその行為を正当なことのように感じた。父も同じだったのではないかと思う。父もまた、背もたれを蹴るような、つまり「被害に対する正当な抵抗」の感覚で、家族に対して力を行使していたのではないか。
もちろん宇佐見りんも、暴力やその連鎖を肯定しているわけではなく、このように家族に暴力を振るう人間がどのような心理状態にあるのかを理解しようとしているのではないでしょうか。
「被害に対する正当な抵抗」としての暴力なら、おそらく行使するのにためらいも後悔もないのでしょう。
「お前のためにやっている」みたいなことを言いながら、正しいことをしていると思い込んでいる人間は迷いがなく残酷になれて恐ろしいですね。
そうやって父母に傷つけられているかんこも、実は弟のことを過去に深く傷つけていたことを思い知ります。
「いじめたほうは忘れるけど、いじめられたほうは忘れない」みたいなことをよく言いますが、被害者としての自分を強調する自己愛は強くても、誰かを傷つけた加害者としての自分を受け入れることは心地よいことではないので、無意識のうちに忘れようとするのかもしれませんね。
しかし、傷つけた側がその行為を、つけた傷を認識していなかったら。
これほど傷つけらえれた側を絶望させる行為はないように思います。
せめて痛みを認めて分け合ってくれたら・・・。
つらいのは、痛みでもなく、それに絡む恥でもなく、傷をあたえたと認められないことだ、と思った。痛みにかろうじて耐えられるのは、それが痛みだとわかるからだ。だがそれをないものとされると、人は、そのずれに苦しむ。
DVや虐待があった時に隔離して、「逃げろ」というのが多くの場合正しい対応だと思います。
ただ、複雑に絡み合った家族の愛憎の中、誰かが一方的に加害者であるのか?
かんこは弟を傷つけていたことを知り、母にも「あなたのせいで兄が出ていった」と厳しい言葉をかけます。
発端は父の暴力や、母の病気などだったのかもしれませんが、かんこや兄の態度にも非があったと、弟は冷静にかんこに言います。
この苦しみは全部が自分の思い込みなのか、そうだとすると自分は何に苦しんできたのか。自分のものとまるきり違う他人の記憶が流れ込むのは、合わない型の血液を流し込まれるように苦痛である。複雑な被害と加害のせめぎあいに酒がまじるので、認識はどこまでもずれた。
そんなズレや、ほつれを忌んで家を出た兄と弟。
その判断をどうこう言うわけではないけど、家族、血の呪いは根深くたとえ物理的に離れても、なにかの拍子に逃げた者を捉えようとします。
中上健次に傾倒する宇佐見りんが、デビュー作から繰り返し家族の物語を描き、『くるまの娘』で複雑に絡み合った愛憎と受け継がれる血脈の呪いを書いたのには、合点がいったように思いました。
地獄の本質は続くこと、そのものだ。終わらないもの。繰り返されるもの。
なぜかんこは、この地獄にとどまるのでしょうか?
それは父母に「すがられたから」と言います。
そのために自身がぼろぼろになっても。
赤ん坊のように自分の子供に依存しようとする父母。
このねじれは、『かか』でもみられた宇佐見りん独特の家族観だと思います。
しかし、「家」や「家族」の概念が変化している現代では、ヤングケアラーの問題にもみられるようなねじれは時折みられるように感じます。
大家族で、家長たる父親に絶対的な権力があった一昔前の家族に比べて、核家族化してひとり親世帯なども含めて家族の単位が小さくなるにつれて、親が親で在り続けるのが難しい局面があるのかもしれませんね。
かんこもまた、この地獄を巻き起こす一員だ。だからかんこが、ひとりで抜け出し、被害者のようにふるまうのは違った。みんな傷ついているのだ、とかんこは言いたかった。みんな傷ついて、どうしようもないのだ。助けるなら全員を救ってくれ、丸ごと、救ってくれ。誰かを加害者に決めつけるなら、誰かがその役割を押し付けられるのなら、そんなものは助けでもなんでもない。
家族がこうなってしまったのは、父母だけではなくて全員が関わっていて、みんなが傷ついている。
かんこは家族全員が救われる道を模索しているように思います。
出口はまだ見えない。
でも父の母の苦しみに絶望に寄り添えたら、この地獄の終わりが見えるかもしれない。
そんなかんこの祈りを感じさせる物語でした。
祖母の葬式のあとに、母が遊園地に行こうと行ったのはあの頃に、歪みを抱えながらもまだ家族が一緒に暮らせていたあの頃に戻りたいと願ったからでしょうか?
母の病気の後遺症で、最近の記憶はどんどん消え去って、昔の記憶は残り続ける症状にも関係があったのでしょう。
それは「あの頃に戻りたい」とかんこの願いとも通じていて、家を出ていった兄と弟も巻き込んで遊園地へと向かいます。
その結果は惨憺たるものだったのかもしれませんが、もしかしたらひとつのきっかけになりうるのかもしれないと思わせるようなエピソードでした。
車がタイトルに使われていて、作中で重要な意味合いを持ちますが宇佐見りんのインタビュー記事で「火車」の文字を見つけて背筋が凍りました。
恐ろしい恐ろしい。
さらっと地獄へ向かう火車に乗った家族みたいなことを言っていましたが、とんでもないことを考える人だと思って完全に度肝を抜かれました。
20代の前半でこの研ぎ澄まされた鋭敏な感性はやはりただことじゃないと思いますし、天才だと思いました。
地獄の火車って、芥川龍之介『六の宮の姫君』からの中村文則『去年の冬、きみと別れ』を想起させますし、いやもう本当にとんでもないです。
「しんじゅうする」と母が言って暴走する車はまさに地獄へ向かう火車でした。
完全に家族の再生は描かれずに物語は閉じますが、その萌芽は感じられたように思いますし、それほど簡単な話でもないのでしょう。
それでも地獄に踏みとどまって家族とともに生きる決意をしたかんこは眩しいですし、父と娘、母と娘という一方通行の関係を越えて寄り添うことを試み始めたかんこの行動は尊く、地獄にたらされた一本の蜘蛛の糸のように思えました。
5、終わりに
ぶっちゃけ1回読んだだけでは「ん?」って感じで、さらっと2回目流し読みして、宇佐見りんのインタビューを読んで感想を書きました。
短い作品ですが、引用したくなる文章が多く、『かか』『推し燃ゆ』の時ほどの派手さはないかもしれませんが、僕の心の琴線に触れるどころかバララララランとかき鳴らすような刺さる言葉が多かったように思います。
強い意志と願いがこめられた物語。
宇佐見りんという作家がこれからどのような物語を生み出してくれるのか、これからも追い続けられるのがとても楽しみです。
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