1、作品の概要
宇佐見りんのデビュー作。
『文藝』2019年冬号に掲載され、2019年11月に刊行された。
第56回文藝賞を受賞。
第33回三島由紀夫賞を史上最年少の21歳で受賞し、話題となる。
2022年4月には文庫版が刊行され、文庫版のみ書き下ろしで『三十一日』が収録された。
2、あらすじ
19歳の浪人生のうーちゃんは、浮気をされて離婚して以来アル中でおかしくなってしまった母親のかかとの関係に悩んでいました。
かかは、ととに捨てられて、自身の母親のババに愛されなかった痛みを持て余して家族にも暴力を振るっていた。
ある時かかが子宮の病気に罹ってしまい、摘出する手術をすることになる。
うーちゃんは、意を決してかかの入院を前に熊野へと旅立つ。
かかを産みたい、かかをにんしんしたい。
そんな想いを胸に抱いて・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
以前から超絶話題になっていた文学界に彗星のごとく現れた若きニューカマー『宇佐見りん』って、表現がめっちゃ昭和感ある表現ですね(笑)
同期が遠野遥ってのも、若い才能が育ってきている感じして良いですね!!
第2作目の『推し燃ゆ』で芥川賞を受賞した宇佐見りん。
ツィッターのフォロワーさんも宇佐美りんの作品を好きな方が多く、めっちゃ気になっていました。
でも、オッサンのカビが生えたような古臭い感性で作品の良さを理解できなかったらどうしよう、単子葉、双子葉。
などと逡巡しまくりの春秋戦国時代を送ってまいりましたが、文庫化を機になんだかムラムラメラメラと読みたくなってしまい、本屋にダッシュして『かか』奪取。
えいやっ、と読んでみました。
痛みと、慟哭と、魂の叫び。
どこまでもエモーショナルな物語に、感情を揺さぶられた。
4、感想・書評
①出産と性、痛み
川上未映子の『乳と卵』を彷彿とさせるような、出産と性について描かれた作品であると思いますし、短い文章の中で様々な角度で性について触れてその手触りについて書かれています。
『乳と卵』でも女性の性の在り方が生々しく描写されていましたが、『かか』ではされにリアリティを持って、19歳の女性の視点からの性が描かれていました。
10代始めの頃のようにセックスや生理に恐れや嫌悪はないかもしれないけど、その在り方に対して違和感を感じている。
流れる血に対して、痛みに対しての悼みがそこにあるように思えてくる。
ととが振るう暴力、かかが振るう暴力と自傷。
『かか』は暴力と痛みが繰り返し描かれている作品でもありますが、かかがうーちゃんと出会うために、にんしんするために処女が破れて血が流れた性行為は、まるで暴力的なイニシエーションのように描かれていると思います。
その感覚は、単純にセックスを嫌悪するのではなくてそういった暴力的な男性の性の解放(射精)を通じなければ巡り会えなかった、かかとうーちゃんの邂逅への違和感を描いているように僕には感じられました。
かかをととと結ばせたのはうーちゃんなのだと唐突に思いました。うまれるということは、ひとりの血に濡れた女の股からうまれおちるということは、ひとりの処女を傷つけるということなのでした。かかを後戻りできんくさしたのは、ととでも、いるかどうかも知らんととより前の男たちでもなくて、ほんとうは自分なのだ。かかをおかしくしたのは、そのいっとうはじめにうまれた娘であるうーちゃんだったのです。
産むという行為に、自分の子供に会いたいという想いに、性が介入するのは何故なんだろう?
ただ、自分の子供に会いたいだけなのに。
男性の僕には理解できないフィーリングだと思いますが、そういった誕生に際してオスの存在って何なんだろうって考えました。
カマキリのオスは出産後にメスの栄養として食べられますし、サケなんかは卵に精子をふりかけた後に死んでしまいます。
遺伝子的にも、オスは不要なんだけど進化のための変異を起こすためのトリガーを持っているような話を聞いたことがあるような気がします。
出産を、『かか』においてのオスの存在を考えるにつけてこれらのエピソードはとても納得がいくもので、要するにオスは生命の誕生に関しては何かのトリガーや触媒のような存在に過ぎないということなのでしょう。
そんな余剰な存在でしかないオスの暴力性と傲慢さ。
そして誕生に際してのセックスへの違和感が語れているように感じました。
②SNSと閉塞感、そして家族
うーちゃんを取り巻く家族関係もとても複雑で、家族がお互いに過剰なまでの愛憎をぶつけまくってます。
いや、こんな家疲れるわっ(笑)
ってな態度になっているのがみっくん=おまいなんでしょう。
この濃密な3世代の家族関係。
かかも、家を出て暮らせられれば、もっとババと距離を取ることができたらもっと違うふうに生きられたのかもしれません。
でも経済的な事情か離れられずに、過去に愛されなかった痛みを繰り返し自分でほじくり返しながら痛みを感じているのでしょう。
家族や、血縁はそういった時にまるで呪いのように付きまとって、時には誰かをスポイルしてしまうものでもあると思います。
歪んだ愛憎は人格を歪めて、それは子供たちにも継承されていく。
そういった閉塞感の逃げ道になるのがSNSだったりしますし、うーちゃんが言うように振る舞い方に気をつけていればネットの空間も暖かいものだと思います。
だけど浮かんでは消えていくTLとアカウントは諸行無常。
心地よくてもやがて移ろい消えていくものなのかもしれません。
実際にうーちゃんは、わずかな動作で自分のアカウントを消して、それまでのSNS上での人間関係をリセットします。
そんなふうにもし現実の血縁関係、家族関係もリセットできたら?
そんなことは叶わぬ願いで、指先のタップでは消えない。
ずっと産まれても、生きても、死んでも、繋がりが続いていく。
その果てしなさこそが家族であり、血のつながりなのだと思いました。
③かかへの愛と憎しみ
母と娘について。
僕は男性で子供も2人とも男の子なので実感に乏しいですが、母と娘の関係はとても多彩で特別だと思います。
女性の作家さんで母娘の問題を描いた方は多く、僕が好きな作品では江國香織『神様のボート』、西加奈子『漁港の肉子ちゃん』などがあります。
母と息子、父と息子、父と娘の3パターンはそれぞれそれなりに同じような形式の物語になるような気がしますが、母と娘の物語となるととても複雑で周りからは理解できないような繊細な物語が展開されるように思います。
そんな中でも、かかとうーちゃんの物語は特異でこれまで触れてきたどんな物語より愛と憎しみに満ちていて、とても切実で痛みが溢れていました。
決して正しい考え方じゃないけど、子供は自分の分身だから、子供を罰することは自分を罰することで、自分を傷つけること。
歪んでいるけど、でも強い愛情がうーちゃんとかかを強く結びつけます。
その強い想いは「あなたしかいない」という、かかのうーちゃんへの強い執着に彩られているように思います。
そんな、かか。
愛されなくて壊れしまったかか。
うーちゃんは、この世界にバラバラに飛び散ってしまったかかの欠片を集めるように、彼女を再構築して産み直すことができるように。
熊野へ向かいます。
ここで信仰も絡めてくる。
うーちゃんが失ってしまったかかへの信仰をほんとうのかみさまによって取り戻すことができるのか?
宇佐美りん、この短い物語の中にめちゃくちゃ色んなものをブッ込んでくるんですが、僕の感覚としては全然詰め込みすぎな感じはなくてそんな信仰や、家族、性、愛、SNSなどの要素はごく自然に当たり前のように佇んでいるように感じました。
そして、愛と祈り。
かかとうーちゃんの関係はぐるぐる回っていて、終わりのないどこにもいけない円環みたいです。
そんな出口のない繋がりを断つために「かか」を産み直すために。
うーちゃんは熊野へと向かったのでした。
それに気いついたとき、うーちゃんははじめてにんしんしたいと思ったんです。しかしそこいらにいるあかぼうなんか死んでもいらない、かかを、産んでやりたい、産んでイチから育ててやりたい。
ノーガードで殴り合っているような、絡み合って崩れていくような。
そんな濃密な母娘関係。
うーちゃんは、かかのことを愛しているし、憎んでいる。
よく言われることかもしれませんが愛の対義語は憎しみではなくて、無関心だったりして、それはババのかかへの態度だったりもします。
だけど愛に対しての類義語は憎しみで、だからこそ近くて愛憎を感じる関係は危険も孕んでいるように思います。
うーちゃんは様々な想いと祈りを籠めて熊野の神様の元へと行きました。
彼女の想いはと願いは、神々への届いたのでしょうか?
5、終わりに
短いのに、濃い作品でした。
いやー、確かに特異な才能を持った作家が現れたようなそんな気がしてます。
こりゃ、続刊も読まなきゃー。
『かか』を読みながら頭の中では、NIRVANA『IN UTERO』のペニー・ロイヤルティーが鳴り響いていました。
あのアルバムも「痛み」に満ちたアルバムでしたし、かかとカートの病んだ魂が共鳴するように音楽と文章が混じり合っていくような気がしました。
正直、この作品の文章は読みづらいって思いましたが、2度目にざっくり読んでいるととてもエモーショナルに感じてきて・・・。
それも仕掛けなのかなと思いました。