1、作品の概要
2020年9月に発売された宇佐見りんの中編小説。
『かか』に続く第2作目。
2020年7月に発売された『文藝』秋季号にて掲載された。
第164回芥川賞受賞。
2021年本屋大賞ノミネート作品。
2、あらすじ
女子高生のあかりは、学校でも家庭でもバイト先でもうまくいかず、推しのアイドル・上野真幸を推すことが彼女の生きがいだった。
ある日、推しがファンを殴ったことで炎上し、推しの芸能活動も、あかりの日常も歯車が狂い始める。
それでも全身全霊をかけて全てを推しに注ぎ込むあかりだったが・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
以前から宇佐見りんの名前はツィッターなんかでもよく聞いていて、好評だったこともありとても気になっていました。
ポップな表紙と「推し」という言葉などから若者向けの文学であることが窺え、初老の僕についていけるだろうかと二の足を踏んでいましたが、文庫化したデビュー作『かか』がとても抉られる内容でとても良かったので、『推し燃ゆ』も読んでみました。
何かナイフで刺されるどころか、槍で突き刺されるような内面の抉りっぷりが半端なく記憶に残る作品でした。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①推しを推すこと、偶像崇拝
あかりは推しを推すことが生活の中心になっていて、生きがいになっています。
一言で推しを推すと言っても、様々なスタイルがありますし、求めているものはそれぞれ違います。
友人の成美は、地下アイドルにハマっていて「触れ合える地上より触れ合える地下」とのたまっています。
推しにあわゆくば触れて、恋仲になりたい。
そんな生々しい欲望が彼女の推しのスタイルで、実際に推しと「繋がる(抱かれる)」ことに成功(性交だけに)し、彼女ではなくて遊ばれているのだけれどそのために整形までして努力をします。
対照的にあかりは、推しと直接関わり合おうとは思っていないですし、遠くから見ていたいと願っています。
逆に距離が近くなって壊れてしまうことを恐れているようにも思いますし、一方的ではあるけど推しの考え方を理解して、推しを応援することを望んでいるのではないでしょうか。
僕はあまりアイドルとか、特定の誰かを熱烈に応援したことはあまりない(強いて言うなら尾崎豊とかだけど死んでたし)ので、ここまで熱をあげる気持ちはあまりよくわからないのですが、あかりの推しへの想いはどことなく敬虔なクリスチャンのような一途で清々しく偏狭であるように思えます。
『かか』でも感じましたが、作品の中にかすかな「祈り」「信仰」のカケラのようなものが散りばめられているように感じていて、そこはかとなく宗教的な香りが・・・。
あかりは「病める時も健やかなるときも推しを推す」とSNSでつぶやきますが、これもキリスト教の聖書の文言であります。
まるで推しが神であるかのように彼の言葉に耳を傾けてその考え方、生き方を理解して自分の生き方に重ねようとします。
彼の言葉を書き連ねたノートはさながら聖書のようですね。
あかりにとって推しを推すことはどういうことなのでしょうか?
ただ楽しくて追っているというだけではなく、何か「行」をしているようにも感じます。
山伏が3日3晩野山を駆け巡る「行」を行うように、彼女は推しに全てを捧げます。
あたしは逆行していた。何かしらの苦行みたいに自分自身が背骨に集約されていく。余計なものが削ぎ落とされて、背骨だけになってく。
推しが炎上して、解散を発表するまでの間にあかりの推しの推し方はただの趣味の領域を超えて、自らの骨身を文字通り削るような必死の行いへと変化していきます。
同時に彼女が生きる現実社会とのギャップはどんどん大きくなっていき、まるで世捨て人のようです。
学校生活も、家庭での生活も、恋も友情もそんな「未来」の全てを捧げ続ける。
見返りを求めない彼女のその行動はどこにたどり着いたのでしょうか?
あたしは徐々に、きつさを追い求めている自分を感じ始めた。体力やお金や時間、自分の持つものを切り捨てて何かに打ち込む。そのことが、自分を浄化するような気がすることがある。つらさと引き換えに何かに注ぎ込み続けるうち、そこに自分の存在価値があるという気がしてくる。
きつさを追い求めて全てを捨て去り、自分を浄化するような感覚。
もはや、荒行をして自分を追い込んでいく修行僧のような境地ですね。
ただアイドルを応援する生きにくさを抱えた女の子の話をここまで掘り下げるとは・・・。
これぞ純文学。
宇佐見りんさんは21歳ということですが、たぶん人生3周目ぐらいなのでしょう(^_^;)
②SNSとそのゆるやかな繋がり、現代性
アイドルを応援する行為を荒行にまで高める女子高生のあかりちゃんですが、現代を生きる若者らしくSNSはフル活用しています。
オッサンくさい感想かもですが、やっぱり若い世代の感性だなって思いますし、「今」の時間が切り取られている気がしますね。
優れた文学はその時代の空気感や雰囲気みたいなものを取り込んで物語の中に息づかせるのではないでしょうか?
中村文則の物語の主人公がブログ書いたりすることはないですし、村上春樹の物語の主人公がLINEしたり、小川洋子の物語の主人公が推し活することもないように思いますし、宇佐見りんという作家がその若い感性で物語の中に「今」を上手に取り込んでいるように感じていて、その部分も『推し、燃ゆ』の魅力なのだと思います。
例えば推しが炎上したあとにざわついているSNSを閲覧するあかりがもらすこの文章。
何の気なしにひらいたSNSは人の呼気にまみれている。
SNSがざわついて多くの人たちがネット空間に溢れているさまをシンプルかつ秀逸に表現している。
この文章読んで、「のわぁ!!」って言いました僕。
でも、なんかよくわかる。
3.11のあとのネットやSNSがこんな状態で人いきれで息が詰まるような気がしました。
僕はこんなすごい表現はできなかったけれど。
あかりがSNSに投稿して、即時にリアルに隣にいる成美がいいねをつけるこの場面も。
〈病めるときも健やかなるときも推しを推す〉と書き込んだ。電車が停まり、蝉の声がふくらむ。送信する。隣からいいねが飛んでくる。
ここの文章、全部好きぃ!!
電車が停まり、蝉の声がふくらむ。送信する。ってとこのリズムもいいです。
隣からいいねが飛んでくるって・・・。
うーん、オジさんが高校生の時はなかったなぁ・・・。
エロ本が飛んできたことはあったかもしれんけど。
会話もしてリアルでもコミュニケイトしながら、同時にSNSでも繋がっているっていう新しい世代の繋がり方を感じましたし、とても今の時代をよく切り取っているなと感じました。
リアルとデジタルの境目がだんだんぼやけているような、そんな何かの萌芽が見て取れます。
そして、あかりの推しとSNSの関わり方を同時に表現したこのお文章。
携帯やテレビの画面には、あるいはステージと客席には、そのへだたりのぶんの優しさがあると思う。相手と話して距離が近づくこともない、あたしが何かをすることで関係性が壊れることもない、一定のへだたりがある場所で誰かの存在を感じ続けられることが、安らぎを与えてくれるということがあるように思う。
あかりが成美のように、推しと決して触れ合おうとしないのは何かが壊れてしまうことを恐れているからなのでしょうか?
壊れなければ、一生追い続けることができる。
へだたりを感じながらも安らかな気持ちで、誰かの存在を感じることができる。
SNSでの距離感と、推しとの距離感には何かしらそういった距離感があるのかもしれませんね。
③あかりの家族とその生きにくさ
物語の最初ではどこにでもいる女子高生のようにあかりのことが描かれているのですが、実は生きにくさを抱えていて家庭でも学校でも窮屈な想いをしていて、物語が進むにつれてその摩擦は大きくなっていきます。
一人称で描かれているだけに、最初はあかりのポンコツぶりは息を潜めていて、物語が進んでいくにつれて「えっ、この人大丈夫なん?」って思うようになっていきました。
僕が勝手によく言っている「一人称の罠」ですが、とても重要な情報が語られずにあとでドバっと出てきて、それまでの世界観を覆したりする現象。
あかり自身の生きにくさと、推しを推すことは実はリンクしていて推しに自分の生き方を重ねて、推しの生き方や思考、哲学から自らが立ち上がるためのヒントを求めようとしているように思います。
でも通常そういった生きにくさを克服したり、生きるための規範を求めたりするのは宗教(キリスト教、仏教、イスラム教とか)であったかと思いますが、あかりは推しにそれを求めます。
だからこそ、あかりの推しへの推しかたはどこかしら宗教的な要素をおびているのだと思いますし、馬鹿げているのかもしれませんが推しを推すことによって彼女は救済されようとしているようにも見えてくるのです。
何故でしょうか?
それはこの国が無宗教の国になってしまったから。
えっ、色々あんじゃん。仏教も神道もキリスト教も、怪しげな新興宗教も。
と言われるかもしれませんが、そういった宗教が社会の中で人の心の拠り所になるような機能を普遍的に持つ時代は残念ながらこの国では終わってしまったのかもしれません。
もちろん一部の方たちは宗教によって救いを得ているのかもしれませんが、残念ながらマイノリティと言わざるを得ませんし、お盆にお墓参りに行くとか、正月に神社に行くとか、クリスマスはサンタが来るとか、パッチワークのように残った慣習があるだけで今この国で神と宗教を心の拠り所にしている人間は稀有だと思います。
日本は八百万の神がいる国なのに皮肉なものですね。
しかし推しは推し。
神では有り得なくて。
推しが心の支えで、魂のありかだった日々は唐突に終わります。
やめてくれ、あたしから背骨を、奪わないでくれ。推しがいなくなったらあたしは本当に、生きていけなくなる。あたしはあたしだと認められなくなる。
もしかしたら太平洋戦争の敗戦を玉音放送で聴いていた当時の日本国民の気持ちはこんな感じだったのかな?
だって天皇陛下は現人神だったんでしょ?
でも、敗戦して人間になっちゃったわけで・・・。
ちなみに推しの誕生日は8月15日。
終戦記念日ですね・・・。
もう追えない。アイドルでいなくなった彼をいつまで見て、解釈し続けることはできない。推しは人になった。
人になった?
えっ、人じゃなき今まで何だったの?
彼女にとっての神=アイドル=推しだったのでしょうか。
『推し、燃ゆ』は推しを糧に自分を見つめ直して成長していくとかの物語ではなくて、あかりはどんどん堕落して墜落していきます。
推しが燃えて引退するまでの1年半の間、彼女の人生は大きく損なわれていって、縋っていた推しまでいなくなって空っぽになってしまいます。
んで、おしまい。
ええええええええ。
って感じですが、最後にそこはかとない希望も提示されています。
僕が繰り返し使っているアレですが、パンドラの匣から出てきた最後の希望です。
それは救いというにはか細い蜘蛛の糸。
あかりはもはや2足歩行もままならずに、ゴミだらけの家で綿棒を拾うために這い蹲ります。
とても惨めですが、そこが彼女の生き直しの出発点。
再生への第一歩だったのだと感じました。
5、終わりに
もうなんかすごかった。
キャッチーな話に見せかけて、なんか突き刺してくるし。
何なん!!
すごすぎ!!
本が売れない時代とか言うわりにはガンガンすごい作家さんが出てきて嬉しい限りです。
深読みおじさんかもしれませんが、宇佐見りんの作品に漂う宗教色って何でしょ?
なんか縁があるところにお住まいだったのかなぁ?
神なきこの国で。
分断と閉塞感がますます人の心を蝕み、魂を病ませていくかもしれませんが、どこかに希望が見いだせたらと思います。
僕も推し活しようかなぁ(笑)