1、作品の概要
『十九歳のジェイコブ』は1986年に刊行された中上健次の長編小説。
文庫本で245ページ。
2014年に舞台化された。
ジャズを愛し、セックスとドラッグにまみれていく19歳の青年の懊悩と狂気を描いた。
2、あらすじ
十九歳のジェイコブは、故郷を飛び出し、モダンジャズ喫茶店に入り浸っていた。
学校にも行かず、定職にもつかず、ジャズ、セックス、ドラックにあけくれる毎日。
自分の住居すらなく、友人のユキの家や、誰からのところを転々とする日々だった。
キャス、ケイコらと自堕落な快楽に溺れながら、霞んだ意識の中でジェイコブは世話になっていた叔父の一家を惨殺することを繰り返し考えていた。
ユキも自らの家族を、父親の会社を爆破することを夢見て計画を練り続け、2人の破壊衝動は呼応し共鳴する。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
中上健次は、『十九歳の地図』を以前読んで、その行き場のない怒りや暗い衝動に惹きつけられました。
次は、『岬』が読みたいなと感じていましたが、ブックオフで『十九歳のジェイコブ』を100円で見つけてゲット。
ジャズがクローズアップされた物語ということで、初心者マークのちょいジャズ好きの僕としてはそこも魅力的でした。
最近、あまりこういった退廃的で攻撃的な小説を読んでなかったこともあって新鮮さを感じました。
4、感想(ネタバレあり)
村上春樹が新作の『街とその不確かな壁』で「作家が真摯に描ける物語のテーマは限られている」みたいなことを言っていましたが、中上健次という作家も同じテーマを物語という器を替えながら描き続けている作家なのではないかと思います。
血脈、紀伊半島という土地にまつわる呪い。
『十九歳の地図』から始まり『岬』『枯木灘』らへと連なる一連のテーマは中上健次自身の複雑な生い立ちと生まれ育った土地への想いがこめられているいるように感じます。
そして、その一連のテーマは『十九歳のジェイコブ』でも描写されていて、ラストのカタストロフィへの引き金となりました。
『十九歳のジェイコブ』では、中上健次が19歳の頃に大学受験を名目に上京するも予備校にはほとんど通わずに、ジャズにのめり込み新宿のジャズ喫茶に入り浸っていた経験が書かれたのだと思います。
そこに血脈というテーマも盛り込まれていて、中上健次という作家が私小説作家としての側面を色濃く持っていることを改めて感じました。
自身の19歳の時の何者でもない不安定さ、ずっとこのままでいられるはずがないという将来への不安を感じながらも自堕落な生活から抜け出せない自らの怠惰。
そんな19歳というエアポケットのような学生でも、社会人でもない何者でもなかった時期の不安定さを中上健次は表現したかったのでしょうか?
しかし、ジェイコブの抱えている闇は深く、深刻に混乱し、逃れようなくまっすぐにカタストロフィーに向かっていっているように思います。
凄惨で目を覆うようなラストはあらかじめ決められていたようで、結局のところジェイコブは自らを縛る血の呪縛から逃れられず、それを断ち切るためには血が流れる必要があったのでしょう。
どこか投げやりな愉悦と快楽の日々の果てにたどり着いた悲劇。
読み始めた時に村上龍『限りなく透明に近いブルー』と限りなく似た雰囲気を感じたのですが、同じセックスとドラックに溺れていても、『限りなく透明に近いブルー』ではその後に動き出していく人生に対しての一時の踊り場的な停滞が描かれていたのに対して、『十九歳のジェイコブ』ではどうしようもない行き止まりがあらかじめ定められていたように感じます。
叔父の家から逃れて怠惰に過ごしていた日々がまるで執行猶予期間であったかのように思えてきます。
この行き止まり感は、初期の中村文則作品の感じにも相通ずるものがあるように思います。
『銃』『遮光』のような。
むちゃくちゃやりながらもジェイコブの心は自らの生い立ちに縛られて、叔父への憎悪にどうしようもなくがんじがらめにされていたのでしょうか?
ぜつぼうだ、ぜつぼうだ、灼熱の砂漠、熱砂の砂漠。
村上龍と中上健次は相互に影響を与え合っていたように思いますが、ユキやジェイコブの社会や血縁者へのとめどない憎悪は村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』を彷彿とさせられます。
1980年代、学生運動後の若者たちの身体の中には、発散できずにやり場のない激し怒りが沈殿し続けていたのでしょうか?
バブル前夜、資本主義が幅を利かす中、白痴化していくこの国の大人たちへのマグマのような煮え滾る憎悪。
ただ『十九歳のジェイコブ』はただ憎悪と暗い運命に翻弄されるだけの物語ではなく、とても鮮烈なイメージを喚起させられる剥き出しのナイフのような鋭利な文体がキャンバスに絵の具を叩きつけるかのように、鮮やかな色彩で物語を彩っていきます。
これは村上龍『限りなく透明に近いブルー』でも感じたことですが、主人公は目に映る様々な出来事を一歩引いて俯瞰で感じ取りながらも、その鮮烈な感性で視覚に訴えるような強烈なイメージを持った文章を読者に対して叩きつけてきます。
文章が綺麗だとか洒脱だとかいうのとはちょっと違うのですが、ダイレクトに読者の脳にイメージを叩きこむような、言葉を使って絵を描いているような文体で、読んでいて覚醒感を覚えるようでした。
それと、音楽をこれだけフィジカルに。
身体の髄まで、音と身体が一体となっているような密接な描写をしている小説を読むのは初めてで、魂が揺さぶられるような思いでした。
音楽の本質を僕が語るのはおこがましいのですが、個人的には音楽の本質はフィジカルなものだと思っています。
音楽とカラダは密接につながっていて、音楽を聴いてキモチよくなるのは身体が反応しているから。
ダンスミュージックが好きで、フロアで音楽を聴いている時、僕はいつも音楽とひとつになりたいと願っていました。
もっと音楽のそばに行きたい。
ダンスはイニシエーションのようで、魂でもなんでも捧げて、もっと音楽とひとつになれたらと明け方まで踊り明かす。
音楽とのSEX、それがダンス。
ジェイコブは自然とジャズを身体に取り込んで血液のように循環させているようです。
彼がジャズと溶け合えているのは、魂が空っぽで乾いているからなのでしょうか?
ジャズは砂漠に降る慈雨のように、彼の乾ききったカラダと魂に染み込んでいったように思います。
アイラーのその音の芯だけのジャズを聴いていたかった。音の芯は直接耳から心臓を貫く。その針のようにとがった音の芯は心臓から血管に入り、ジェイコブの体そのものがジャズの共鳴版になっている。
5、終わりに
『十九歳のジェイコブ』は中上健次の作品の中でもそんなにメジャーな作品ではありませんが、僕は好きですし読んでよかったです。
ジャズが重要なテーマのひとつというところも良いですし、ひさびさに刺激的で、暗く救いようのない作品を読んで、「ああやっぱり俺はこういうの好きだよなぁ」って思いました。
作中でジェイコブが好きなジャズサックスプレイヤーのアルバート・アイラーのCDも一枚買いました。
中上健次、次こそは『岬』読みたいですね~。
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