1、作品の概要
『ライオンのおやつ』は、2019年にポプラ社から刊行された小川糸の長編小説。
2020年度の本屋大賞第2位。
2021年にドラマ化され、NHK BSプレミアム「プレミアムドラマ」で全8回で放送された。
2022年に文庫本も刊行された。
不治の病にかかった雫が瀬戸内のホスピスでの生活を通して新たな気づきを得る。
2、あらすじ
海野 雫(うみのしずく)はステージⅣの末期癌と診断されて、33歳の若さで余命宣告を受ける。
「もう痛い思いも苦しい思いもしたくない」と瀬戸内のホスピス「ライオンの家」に入居を決めた雫。
彼女を暖かく迎えて寄り添ってくれたマドンナ、料理担当の狩野姉妹と優しく美味しい料理とおやつ、可愛い犬の六花、人生最後の淡い恋の相手のタヒチくん・・・。
瀬戸内の美しい海と自然を背景に、たくさんの人たちとの暖かな触れ合いが雫の心に巣食っていた死への絶望と恐怖をゆっくりと溶かしていく。
そして、人生最後のおやつに雫がリクエストしたものとは?
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
小川糸さんの作品はほっこりする感じでとても好きな作家さんです。
今まで『食堂かたつむり』『ツバキ文具店』『キラキラ共和国』を読みましたが、どの作品も心がじんわりと温かくなるような素敵な作品でした。
『ライオンのおやつ』も表紙の絵とタイトルに惹かれましたし、ツィッターの読書垢のみなさん評判も良くてずっと気になっていた作品でした。
良作が多い本屋大賞で2位だったというのも気になるポイントでしたし、読んでみて死生観を深く掘り下げが作品で読みながら様々な想いが込み上げてくるようなとても思い入れのある1冊になりました。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①看取るということ。死を受け入れるということ。
仕事が介護職(訪問介護)で、医療職の方々や施設で介護をしている方に比べると少ないですが、看取りを経験させていただくこともあります。
最近もお二人の看取りに関わらせていただきました。
近年では、病院でチューブに繋がれて、痛い思いや苦しい思いをするのなら延命治療を辞めて自宅で安らかに最後を迎えたいと、退院して家で最後を迎える方も増えてきています。
口から食べられなくなると、胃瘻を増設して直接胃袋にチューブから栄養を注入したり、水分を点滴したりしながらとにかく1秒でも長く命を永らえさせるのが、少し前までの日本の介護・医療の考え方でしたが、ヨーロッパなどではそういった延命措置はやめて自然な看取りに移行することが主流となっているようです。
日本に於いても増加し続ける医療費、介護費の抑制の意味もありますが、「どう死にたいか」ということも考え始められており、エンディングノートの存在や、「延命治療」に対しての考え方など、死に方についての考え方の変化が広まっています。
もし自分が不治の病にかかっていたり、余命幾ばくもない状態だったとしたらどうしたいか?
とてもシビアな問いかけではあると思いますし、それが何歳でのことなのかということも重要なファクターになると思いますし、家族の関係やそれまでの人生や生活歴も大きく関わってくると思います。
90歳や80歳ならどうでしょう?それなりに本人も家族受け入れられるかもしれません。
70歳や60歳ならどうでしょう?ちょっと早すぎると思いますが・・・。
50歳、40歳なら?
主人公の雫は33歳でした。まだまだ人生これからだと思いますし、自らの死を受け入れるには過酷な年齢だと思いますし、しかも彼女は結婚もしてなくて血の繋がった家族もおらず、育ての父親には自分の病気のことは知らせておりませんでした。
たくさんの痛みと苦しみを伴った闘病生活の末に、雫が医者から受けたのは数ヶ月余命宣告。
彼女の心を支配したのは強い怒りでした。
それは当然のことだと思います。
理不尽すぎる。
なぜ自分が、自分だけ、こんな思いをしなければならないのか?
まだ33歳で・・・。
到底受け入れられるものではなかったでしょう。
八つ当たりされるぬいぐるみたちにも心が痛みましたが、雫のやりばのない怒りと悲しみが切々と伝わってきました。
病魔に侵されて人生の最後をどう送るか?
彼女が選択したのはホスピスでの穏やかな最後でした。
たとえ治療を放棄することで寿命が短くなったとしても、痛みや苦しみをこれ以上味わずに安らかに最後を迎えたい。
そうやってたどり着いたのが「ライオンの家」でした。
②雫の心境の変化。死生観。
看取りの研修などでよく参考にされるのがキューブラー・ロスの著書『死ぬ瞬間』の死の受容への5段階です。
それは①否認と孤立→②怒り→③取り引き→④抑うつ→⑤受容という5段階を経て人は死を受け入れていくというものです。
雫が「ライオンの家」に来た時は、④の抑うつの状態に近かったのではないでしょうか?
病気の治療の始まりの①を経て、ぬいぐるみに当たり散らしたのは②怒りの段階で、③を経ながらもまだ今ひとつ実感がわかないままに「ライオンの家」に行くことを決めた。
医療で、キュア(医療で治療をすること)とケア(精神面も含めてアプローチ)をすることでアプローチが分かれて、主にケアの部分を看護師が担当することが多いですが、「ライオンの家」でのアプローチはホスピスということもありケアの要素が強いものであったと思います。
制約なく自由に振舞って、よく寝て、よく食べて、よく笑うこと。
「ライオンの家」での生活は雫の冷え切った心を温めていきます。
幼くして両親を事故死で失い叔父に育てられた雫。
そんな生い立ちも影響していたのか、彼女は常に周りに気を遣って、他人が心地よく過ごせるように振る舞う「いい子」でした。
もしかしたら、そんなストレスも彼女の病気の原因になってしまったのかもしれません。
レモン島での自然に心癒されながら、雫は最後はあるがままに生きようと決意します。
最後くらい、心の枷を外しなさいと、神様は私に優しく口づけしながら、そうおっしゃっている。
ずっと夢だった犬を飼うことが最後の最後で叶い、自分に寄り添ってくれるように最後まで一緒に時を過ごしてくれた犬の六花。
雫にとって六花の存在は心の支えで、心にも身体にも適切なケアを施してくれて、自分の苦しみや悩みをわかった上で欲しい言葉をくれるマドンナの存在も彼女にとってはかけがえのないものでした。
毎朝、違った味付けで振舞われる美味しいお粥や、お昼のバイキング、夕食の一汁三菜、毎週日曜日のおやつなどの美味しい食べ物たちも。
やっぱり食べることは生きることだし、食べ物が美味しいって思えることは生きていく上で大事なことですし、食べることが楽しいって思えることは人が豊かな生活を送る上で大事なことなのだと思います。
女性ならなおさらですね。
ただ一度は死を受け入れて心穏やかになっていっていた雫も体が衰えていくに従って、再び「生きたい」という強い気持ちが自分の中にあることに気づきます。
死を穏やかに受け入れて一直線に受容するのではなくて、その過程には紆余曲折があるのかもしれません。
一度は受け入れられたと思っていても、それでも生きたいという気持ちが残っていて気持ちが揺れて行きつ戻りつする。
それが当たり前のように思います。
雫は無理やり悟って何もかも諦めるより、生きたいという自分の中の強い気持ちもしっかりと認知することで、より良い形で自らの死を穏やかに受け入れられたのではないでしょうか。
私は自分で、自らの死を受け入れたつもりになっていた。でも、そうじゃなかったのだ。確かに外堀は埋まっていたけれど、肝心のここ、私自身が、私の心が、死を受け入れていなかった。私はホスピスに入りたいから、そのほうが楽で都合がいいから、死を受け入れたふるをしていたのかもしれない。
でも本当のところでは、まだ死にたくない。私は、もっと生きたい。
そう思うことが、欲張りみたいにも感じていた。往生際が悪くて、みっともないと。でも、そうじゃない。死を受け入れる、ということは、自分が死になたくない、という感情も含めて正直に認めることだった。少なくとも、私にとってはそうだった。
③舞台となった瀬戸内の大三島の自然の素晴らしさ
作中ではレモン島としか明かされていませんが、読みすすめていて現代美術館、神社にある大きなクスノキ、ワイナリーの存在で「あれもしかして大三島なんじゃ・・・」って思いました。
調べてみるとやっぱり大三島で、大三島が大好きな僕は、作者の小川糸が『ライオンのおやつ』の舞台を選んだのを知ってなんだか嬉しい気分になっちゃいました。
余談ですが、いつかこの島に別荘を建てるのが僕の夢です(^_^;)
温暖な気候と、美しい海と山。
おいしい空気と優しく吹く風。
そんな島の自然全てが雫の傷ついた魂を包み込むように慰撫したように思います。
④マドンナが死ぬことを旅立ちと捉えたことについて。命と魂が円環であるのならば。
著者の小川糸は、少しでも死ぬのが怖くなくなるような物語を書きたいと言われていて、死を新たなる旅立ちと捉えるどこか仏教的な死生観を提示しています。
もし、死ぬことが逃れようのないもので、その現実を少しでも前向きに捉えて生きていこうとするのならそういう考え方になっていくのではないでしょうか?
今ある生が唯一で、死んだら終わりなのだとしたら今ある生にできるだけすがりつく考え方になっていきますし、若くして亡くなるということは悲劇以外の何物でもありません。
でも、もし死んだあとにも繰り返す生があるのなら、魂が巡るのなら、死は旅立ちであり終着点ではない。
だから、宗教とかオカルトは抜きにして、自然とこの物語の中で生と死を繰り返すものと考えたのだと思います。
母の死には間に合いませんでしたが、読んだ人が、少しでも死ぬのが怖くなくなるような物語を書きたい、と思い『ライオンのおやつ』を執筆しました。 おなかにも心にもとびきり優しい、お粥みたいな物語になっていたら嬉しいです。
マドンナもそのような死生観を持ち、ホスピスに来る人たちに接して、彼・彼女らの旅立ちが少しでも安らかで喜びに満ちたものであるように働きかけます。
それは言葉がけであったり、患者の心の奥にある願いを引き出すようなかかわりであったり、様々な方法で避けようのない死へと向かっていく人々の心と身体を少しでも穏やかにできるようにケアしていきます。
最後まで人間らしく自分の生きたいように生きる。
病院や介護施設ではなかなかそんな最後を迎えることが難しいように思います。
「はい、こちら側からは出口でも、向こうから見れば入口になります。きっと生も死も、大きな意味では同じなのでしょう。私たちは、ぐるぐると姿を変えて、ただ回っているだけですから。そこには、始まりも終わりも、基本的にはないものだと思います」
おぎゃぁと子供として生まれて、やがて独り立ちして家族を作り、また子供に戻ってこの世界から旅立っていく。
生と死。
終わりと始まり。
それは全て円環であって、生きることと死ぬことはぐるぐると繋がっている。
もちろん死んだことがないんだから確証はないけど、一旦そうやって信じられたら。
命が終わることもこの世界からの旅立ちで、次の生への準備なんだって思えてくるから。
物語の後半、雫の意識は現実と夢の境をさまよいます。
実際にがん末期だったり、衰弱で亡くなる前の方は意識が朦朧となったりしますが、リアリティを感じました。
それでも時々ピントが合うように意識がクリアになる瞬間があって、5日ぐらい知らない間に時間が経って雫が愕然とする場面もありましたね。
最後に育ての父親と出会えて、思い出のおやつのミルクレープを自分は食べられなかったけれど父と妹が食べられて、タヒチくんとも会えて、そして彼のブドウ畑で歩いて父親と一緒にブドウを植えることができて。
そうやって彼女は命を燃焼失くして旅立ったのでした。
そうだ、私はもうすぐ光になるのだ。
光になって、世界を照らすのだ。
5、終わりに
いや、本当に素晴らしい小説でした。
心の奥底にある何かを揺さぶられるような、深いところから湧き上がってくるような感動が体中を満たしています。
「またね」そうやって笑顔で送ることができたら、素晴らしいですね。
でも、やっぱり別れはさみしいのでしょうけど。