1、作品の概要
『海と毒薬』は、遠藤周作の長編小説。
1957年に刊行された。
テーマは、「神なき日本人の罪意識」。
新潮文庫版で196ページ。
第5回新潮文学賞、第12回毎日出版文化賞受賞。
1986年に熊井啓が監督・脚本で映画化し、第37回ベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞した。
奥田瑛二、渡辺謙らが出演している。
太平洋戦争中に捕虜となった米軍兵士を生きたまま臨床実験の被験者として使用した実在の九州大学生体解剖事件を基にした。
続編が描かれる予定だったが、読者の抗議の手紙などもあり、断念した。
しかし1977年に刊行された『悲しみの歌』で、勝呂医師が主人公として登場している。

2、あらすじ
肺を患っているため、どこか陰気だが腕は確かな開業医・勝呂に治療してもらっている「私」は、彼がかつてのF医大生体解剖事件に関わったことを偶然知る。
戦時中、F医大で医局員だった戸田と、勝呂は急死した医学部長の後任を巡る権力争いに巻きこまれていく。
2人が「おやじ」と慕う橋本教授は、医学部長の後釜を狙う権藤教授を出し抜こうと、前部長の姪・田部夫人の手術を担当するが、失敗し死なせてしまう。
名誉挽回のために功を焦る橋本教授は、禁忌の生体実験に手を出してしま勝呂と戸田も実験のメンバーに選ばれるが・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
以前から気になっていた作品でしたが、実際に戦時中に起きた事件を基にした重そうなテーマに、二の足を踏んでいました。
最近、仲良くさせて頂いているXのお友達が読了ポストをされていたので、自分も読んでみました。
8月という時期的に戦争に関連する物語を読みたくなったということもありましたし、何か長年やり残していた宿題に取り掛かるような気持でした。
読み終わって、何か胸の中に消化しきれないモヤモヤが残って燻り続けているようです。
ぜひ続編を書いて欲しかったですが、社会的な反響も遠藤周作に続編の執筆を断念させるほどに大きかったんでしょうね・・・。
4、感想(ネタバレあり)
戦時中1945年5月に米軍捕虜を生体解剖し、殺した事件。
終戦間際、劣勢に立たされた日本。
沖縄戦、本土への大規模空襲。
反米感情が高まっている中での事件ではありましたが、捕虜を生きたまま医学実験に使うとは鬼畜の所業ですね。
そんな実験を行ったのはどのような人物だったのか?
物語は、事件十数年後に東京(?)で開業していた勝呂のもとに「私」が患者として訪れるところから始まりますが、勝呂医師は得体は知れなくて不愛想だけど、やたら腕のいい医者として登場します。
妻子もいて、家庭を持っている勝呂。
「私」は、偶然F市を訪れて勝呂がF市医大の生体解剖事件に関わっていたことを知り、帰京後に勝呂にそのことを話します。
この時の勝呂の言葉が印象的で、結局勝呂は生体解剖の時にほとんど何もできずに震えていただけなのですが、それでも解剖に立ち会ったのは事実で、その時も逃れようなく巻き込まれてしまったことを話しています。
「仕方がないからねぇ。あの時だってどうにも仕方がなかったのだが、これからだって自信がない。これからもおなじような境遇におかれたら、僕はやはりアレをやってしまうかもしれない・・・アレをねえ」
罪の意識はないのか?と、疑問にも思いますが、たとえ罪の意識を持ち悔やんでいたとしても、また同じような状況になってしまったら、罪を犯してしまうかもしれない。
それほどに、勝呂に罪を犯させてしまった当時の状況や、流れは止められようもなく大きなうねりと力を持っていたのでしょうね。
勝呂や、事件に関わった医師たちだけが突出した異常者だったのでしょうか?
医療の発展と、米兵への憎しみに我を失ってしまったサイコパス集団だと?
序盤に「私」が、近所のガソリンスタンド店主から戦争中の武勇伝を聞きますが、その内容は多くの女性を犯し、抵抗する一般市民の男性を殺したという内容でした。
そして、現在は普通に家庭を持って、誰に罰されることなく平穏に生きている。
当時の戦後の日本にはそういった人たちも存在したのでしょう。
勝呂たちと、兵士たちとの間にどのような差異があるのか?
結局は、戦争と国家という大きなうねりに飲み込まれて、否応なくそのように振る舞ってしまったということではないのか?
そこには、同調圧力に弱い日本人の国民性も語られているように感じます。
赤信号みんなで渡れば怖くない。
正しいか正しくないかではなく、多数派に合わせてしまうような風潮が示唆されていたようにも思います。
ただ、遠藤周作がそのような行動を取りがちな日本の国民性を非難しているかというと、それも違うように感じていて、あの時代の国家の閉塞性と強制力、戦争という巨大な闇を表現していたように感じました。
そして、そういった国家の危機に八百万いるはずの日本の神の存在の希薄さにも思うところがあったのではないでしょうか?
もちろん、当時仏様に戦争に行った家族の無事を祈ったりとか、神社にお百度参りに行ったりとか、宗教的な関りはあったのだと思いますが、遠藤周作が考えるような人々の心を支えて律するような絶対的な存在ではなかったのでしょう。
僕個人の考えとしては、日本に於いての宗教は生活レベルに溶け合っていて、個人の道徳観に結びついているように思いますが、遠藤周作は苦境の中で神が日本人の心のうちに支えとして存在していないと考えたのかもしれません。
まあ、この時は特に現人神がいらっしゃいましたしね・・・。
大学病院というところは、医療の発展のための役割を担っているところだとは思いますが、F医大では生体解剖以前にも、患者の命を軽視したような実験的な手術や、権力争いのための手術が行われていました。
医療の場というより、まるで実験室のようです。
勝呂がはじめて担当して思い入れがある患者の「おばはん」も成功率が低い新しい術式の実験台にされようとしていました。
「おやじ」が権力争いに勝利するために手術した田部夫人は手術中に亡くなりますが、術後の状態悪化で亡くなったように隠ぺい工作をされます。
いや、人の心とかないんかって、呪術廻戦の禅院直哉状態でしたが、戦争で軍人も民間人も次々に死んでいく時代。
命の重さの認識が現代とは全然違ったのでしょう。
戸田の言葉が刺さります。
「みんな死んでいく時代やぜ。病院で死なん奴は毎晩、空襲で死ぬんや」
ドライな戸田に対して、優しくて素朴な若き日の勝呂。
優しくて人間らしい心を持ったいい医者のように思いますが、彼も運命に飲み込まれて人生を変えられてしまいます。
いつも海を眺めていた彼の姿は、冒頭の「私」と、実際に九州大学の屋上から海を眺めたという遠藤周作の姿に重なります。
海が黝ずんだという表現は、彼自身の心情と、先に待ち受ける昏い運命を予兆するかのようであり、タイトルの海の部分と呼応しているようで暗示的です。
海は今日、ひどく黝ずんでいた。黄いろい埃がまたF市の街からまいのぼり、古綿色の雲や太陽をうす汚くよごしている。
神とは一体どんなものなのか。
それは、宗教によって違っていて、八百万いたり、1人しかいなかったり様々です。
運命から自由にしてくれるのが神というのは、ちょっと「?」な解釈ですが、あえて戸田に的外れなことを言わせることで、2人が神とは縁遠い存在であることを示唆したのか。
戸田から終始感じのは、強いシニシズムです。
確実に破滅に向かっていることを感じながらも、あえて歩みを止めない。
あえて、滅びに向かっているような深い諦観すら感じます。
人間は自分を押し流す運命からどうしても脱れられない、とかサラッと怖いことを言っています。
彼の手記も、まるで太宰治『人間失格』のような深い虚無感に包まれたものでした。
「神というものはあるのかなあ」
「神?」
「なんや、まあヘンな話やけど、こう、人間は自分を押し流すものからー運命というんやろうが、どうしても脱れられんやろ。そういうものから自由にしてくれるものを神とよぶならばや」
捕虜の生体解剖を経ても、冷静に振る舞っているかのような戸田。
しかし、戦後裁判を受けて狂乱のあとに社会的な罰を受けた彼は何も苦しまなかったのでしょうか?
続編が描かれていたら、その後の彼の苦悩する姿が見られたような予感がするのですが。
僕には、彼がシニシズムに侵されて心が麻痺した状態にあった人間だと感じられました。
麻痺しているだけなので、死んでいるわけではなくて、特殊な状況下が終われば通常に戻った心に温かい血が通い始める。
その時に彼は、自分が犯した罪の重さに悶えるたのではないでしょうか?
僕にとって戸田は、作中で一番興味深い人物でした。
俺が怖ろしいのはこれではない。自分の殺した人間の一部分を見ても、ほとんどなにも感ぜず、なにも苦しまないこの不気味な心なのだ。
ラストシーンで勝呂は1人海を眺めながら、大好きな詩を呟こうとする。
でも、どうしてもできなかった。
とても印象的な場面です。
なぜできなかったのでしょうか?
それは、彼が人を殺すという重い罪を犯して一線を越えてしまったから。
かつて触れられていた美しくて尊い何かに触れられなくなってしまった。
もしかしたら、生涯ずっと心を和ませる美しい何かに触れる資格を失ってしまった。
それが、彼の罪の形だったのではないかと思いました。
(空よ。お前の散らすのは、白い、しいろい、綿の列)
勝呂にはできなかった。できなかった・・・。
5、終わりに
なぜ、人を殺してはいけないのか?
子供にそう問われた時にしっかりと答えることができるのか。
実は多くの大人が法律的なことを持ち出す返答をしてしまうのではないでしょうか?
ドストエフスキー『罪と罰』はそれの答えのような文学作品だと思いますが、中村文則も『悪意の手記』で人を殺すという行為の重みを語っています。
人を殺すと、美しいものや、愛情といったあたたかいものからはじかれてしまう。
それは、最後に大好きだった詩を呟けなくなってしまった勝呂の姿に重なるように思います。
人を殺してはいけない理由が法律だけだとしたら、法で裁かれなければ人を殺していいということになります。
そうではなくて、人は人を殺すことで違う領域に入り込んでしまう。
今まで美しく感じられたものが、同じように無邪気に美しいと感じられなくなってしまうということが大きな理由のひとつのように感じました。
↓ブログランキング参加中!!良かったらクリックよろしくお願いします!!