1、作品の概要
『彼の左手は蛇』は中村文則の長編小説。
2025年10月30日に、河出書房新社より単行本が刊行された。
196ページ。
『スピン/spin』第5号~第12号に掲載された。
蛇信仰のある地へ来た男が、とある計画を実行するさまを描いた。

2、あらすじ
とある目的のために蛇信仰のある地へ来た男。
彼の左手にはかつて蛇が宿っていたが、成長と共に失われていた。
逃げ出した毒蛇の一匹を捕まえた彼は、蛇狩りのボランティアに参加し、同じように蛇を捕まえようとする女性に出会う。
彼は、蛇を使ってある計画を立てるが・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
大好きな作家の1人である中村文則。
前作『列』以来、2年ぶりとなる新作長編小説が刊行されていましたが、なんと発売されていることに気付かず、Xのフォロワーさんのポストで知るという大失態を犯してしまいました(;'∀')
スピンで連載されていたのは知っていたし、そろそろかな~とは思ってたんですけどね。
慌てて地元の本屋さんに行きましたが、まあまあ大きめな本屋さんなのになくて、もう1軒の本屋さんでゲットしました!!
TSUTAYAさんでしたが、わりと大々的に取り扱ってくれていて、全国の書店員さんからのコメント付きでした。
なんか、嬉しくて写真を撮ってしまいました(笑)

4、感想(ネタバレあり)
①名刺のような小説
前作『列』を自身の作品の3期の始まりと位置付けた中村文則。
1期は『銃』~『世界の果て』で、2期は『掏摸』~『カード師』かなと勝手に思っています。
ザックリ言うと、1期は主人公の視点で内面の歪みと罪を描いて、2期では時には多視点でミステリー要素も織り交ぜながら、悪と救済を描いたみたいな感じだったでしょうか?
1期では主人公の内面がこれでもかと描かれて内省的で陰鬱な作品世界に共感した読者が多く、2期の物語の世界の広がりやミステリー路線で離れた読者も多かったみたいですね。
僕はどっちも好きやでな中村文則ジャンキーなのですが、1期の作品群の暗さと救いようのなさは心惹かれますね。
3期は原点回帰的な意味合いで、1期の作品群のように主人公の生い立ちからくる歪みを丹念に描いています。
2期でいったん広げた風呂敷をまた3期でまた畳んだ印象ですが、風呂敷の中身は変化しているといったところでしょうか。
『彼の左手は蛇』は、作者の中村文則自身も「僕の名刺のような小説」と言っていますが、今までの小説でもあったような様々な要素が詰め込まれながらも、次のステップへと歩みを進めているような作品でもあるかと思います。
具体的に以下の要素が「名刺のような」と自ら称した所以であると思います。
「中村文則あるある」みたいな感じですね(笑)
・劣悪な家庭環境と両親からの愛情が注がれなかったため、精神的に歪む
・イマジナリーフレンドのような存在に支えられて成長
・パートナーと別れて1人になる
・悪としての存在との邂逅
・期せずして殺人の罪を犯す
・手記がしゅき
・正常さからの逸脱
・生きることへの強いメッセージ
中村文則は、手記がほんとうにしゅきな作家やな~とか思うのですが、どこまでが真実なのか、語っているのが誰なのかが次第にぼやけてくる感じがとてもざわざわさせられて、手記で小説を書かせたら中村文則の右に出るものはいないのではないかぐらいの手記使いですね。
ただ『彼の左手は蛇』が、単に今までの集大成的な作品ではなく、彼の作品によく見られるような要素を詰め込みながらも、蛇信仰をテーマにして次のステージに向かおうとしているように感じました。
神道や、世界に残る原始宗教である蛇信仰。
これまでの作品で取り上げられたような脳科学や生物学の要素なども物語の血肉として息遣いていて、原点回帰して主人公の内面にスポットを当てながらも重層的な物語の世界観を感じられるような作りになっているように感じました。
②蛇信仰
蛇がテーマということあって、とてもヘビーな作品でした。
・・・。
いや、失礼。
前作『列』のあとがきで、次作は神道、原始宗教について書きたいと語っていた中村文則ですが、『彼の左手は蛇』では蛇を崇めていた世界の原始宗教を物語に絡めて書いていました。
最終的に描きたいことや、物語の骨子は変わらなくても、色々なテーマを盛り込んでいて、過去作で取り上げた脳科学や生物学、犯罪心理学などのエッセンスと共に盛り込まれているのが物語に奥行きを与えているようで心惹かれました。
蛇は脱皮をする動物で、再生をしながら悠久の時を生きるような、無限のイメージを古代の人々が抱き憧れ神として祀った。
実際には平均寿命は30年ぐらいみたいなんすけどね(笑)
ウロボロスの蛇が有名ですが、「永遠」「循環」「再生」などのイメージがある動物ですね。

しかし、アダムとイヴを誘惑した存在として描かれていたり、メデューサ、ヤマタノオロチ、ナーガ、サーベントなどの悪しき神や怪物として描かれており、形状のキモさも相まって現代では忌むべき存在として認識されています。
そうなって理由は、新しい宗教の新しい神との争いに負けたからということですが、結局歴史や物語を描くのは勝利した側だということなのでしょうね。
主人公の男は、この原始宗教を復活させる夢想をしたり、アフリカの古き蛇神Apepが世界を滅ぼす白昼夢を見たりします。
彼は幼少期に蛇に救われて、左手に蛇を宿していたと感じていました。
もちろん、それは彼の脳なり意識なりが見せていた幻覚のようなものであり、左手の蛇もイマジナリーフレンドのようなものかもしれませんが。
それでも、生存して自我を築き上げる上で蛇の存在が彼には必要で、ギリギリの状態だったのだと思われます。
神とは一体どんな存在なのでしょうか?
その存在を語るのには無数の語り方があると思いますが、この物語においては人が生きていく上での大切なよすがであり、精神の深いところに根差した規範や心の支えのような存在として描かれていたように思います。
③奇妙な登場人物たちと歪み
登場人物全員変人というキャッチコピーがつきそうなくらいに、やはり今作でも奇妙な人たちがたくさんでてきています。
ってか、真っ当な人間がいたっけ?ってレベルでした。
でも、なんか味わい深いというか、感情移入してしまう人物が多いんですよね。
ロー・Kは、中村文則作品によく出てくる悪として描かれる人物ですが、ちょっと浅薄な印象も受けましたね。
『掏摸』の木崎のような底の知れない怪物のような存在には届きませんでしたが、主人公に対して拭いようのない呪いのような精神的打撃を与えて、結果的に彼の存在を損なってしまった。
アメリカ大統領候補のロー・Kを公の場で殺害する。
そんなテロ行為を企て、そのために毒蛇を集めようとする主人公。
いや、もっと簡単な方法とかないん?吹き矢とか?
とも思いましたが、彼は蛇を使ってロー・Kに罰を与えることに意味を見出していたのでしょう。
個人的には神社の宮司がトリッキーな存在で面白かったですね。
毒蛇を逃がしてばら撒いたのもこの人でしたし、やばい奴なんですが実は妻の死から世界を呪って神を殺し、世界を滅ぼそうしたというところはなんか哀しい人でもありました。
なんか、主人公と似ているところもあり、最後は手記を冊子にまとめて表紙に逆S字のマークをつけたりとか、仲良くなってんじゃんとか思いました。
他の濃い登場人物と比べるとインパクトは薄いですが、主人公が小学校の時に通っていた病院の精神科医も好きな登場人物です。
中村文則作品によく出てくるメンター的な存在だったのだと思います。
『何もかも憂鬱な夜に』の施設長みたいな。
精神科医もどこか心の闇を抱えていて、この世界に居場所を見つけられずに生きている主人公に近しい精神性の持ち主だったのでしょうか?
彼の痛みに共感したからこそ、「その蛇はやがて消えるだろうけど、大事にした方がいい」と言って、主人公から「なんで?」と問い返された時の答えが、「この世界が酷いところだから」というものだったのでしょう。
「現在や未来で、過去は変えられるんだよ。・・・起こったことは変えられないけど、その後の時間をどう生きるかで、過去の印象や意味合いは変えられる」
こちらも精神科医が、主人公に語った言葉でこの本の帯の裏面に書かれている言葉でもあります。
とても力のある、人の心を動かすような言葉ですし、中村文則の作品の本質の一端に触れ得るような言葉でもあると思います。
平野啓一郎が『マチネの終わりに』でも「過去は変えられる」と、書いていましたね。
④「生きろ」というメッセージ
「生きろ」がこの作品の一番の根幹をなすテーマなのではないかと思います。
「再生」を司る蛇がタイトルにも使われて、作品の中心に据えられていたのもそのような意味があったのだと思います。
主人公か英語を始めたころに好きだった単語も「Rebuild(再構築)」でした。
彼も、無意識下ではやり直したい。
この世界で生きていたいと願っていたのだと思います。
蛇が左手に宿っていたのは何だったのでしょうか?
彼が劣悪な家庭環境で虐げられていた状況から抜け出して、再生するためのよすが?
自分の意思を超えたなにか大きなものに縋って、寄り添ってもらう必要があったのでしょう。
そうでもしない限り、あのような酷薄な状況で、本来愛情を与えてくれるはずの存在の母親から存在を拒絶されているような状況から脱することは難しかったのでしょう。
そう考えると、左手に宿っていた蛇が成長と共にいなくなったのも、彼の自我が確立して自立できたからだったのだと思います。
最後に夢うつつのまま蛇と対話する場面は、前作『列』の片腕の猿との対話の場面を彷彿とさせられました。
幸福?目の前の猿が問うようだった。‘何を言っているのだろうか。私は幸福ではない‘彼が私をずっと見ていた。‘私は吹雪のなか芽を食べているだけだ。私はこのようにあるだけだ。君たちの尺度を私達に当てはめるな‘
今までの作品では、あまり生き物が出てくる場面はなかったように思うのですが、3期になって猿やら蛇やら急に生き物大集合ですね。
何かしら自然や生き物の在り方から、行き詰りを感じている人間が生きていく上でなにか大切なことを学ぶみたいなのもこれからの中村作品においての重要なテーマになっていくようにも感じました。
蛇が最後に言った言葉。
「生きろ」というメッセージ。
幸福であらなければならない、何者かにならなければならない。
そうでなくていいから、ただ生きて欲しい。
そんなメッセージが籠められているように感じました。
ー私はずっと、君に生きろと言っていただけだよ。
この「生きろ」というメッセージの部分では西加奈子がずっと彼女の小説のテーマと共通しているように感じます。
同世代で仲良しの2人ですが、作家性はまるで違います。
でも、作品が発している核の部分のメッセージにおいて近しいものを感じる瞬間が多々あります。
生きる。
かっこ悪くて惨めでも、誰かを傷つけて罪を犯していても、この世界に居場所がなくて周囲から疎まれていても、特別な存在でなくても、優れた存在でなくても、生きる。
泥濘をのたうち回るような、泥臭さかっこ悪さから、一筋の光に向かって少しずつ進んでいくような、そんな絶望の果ての一握の希望のような儚くも乏しい生。
絶望をくぐったうえで提唱される希望と生。
そのかけがえのなさに、魂が震えるような強い感動を覚えるのです。
アイデンティティが崩壊して、なにもかも全て壊したくなるような深い絶望。
そういった深い闇をくぐった先に辿り着いた「生きろ」のメッセージは力強く、心の奥深くまで刺さります。
2人の作家の泥臭いまでの「生きろ」のメッセージには、本当にいつも励まされています。
中村文則は初期のいくつかの作品においてバッドエンドを描きました。
それはそれで好きだったのですが、いつからか「生きていくこと」を最後に描いて泥濘をのたうち回りながらも、生きることを選択する希望の物語を描くようになりました。
パンドラの匣に残った一握の希望のように、絶望と災厄の果ての希望が描かれる。
ターニングポイントになったのは、『悪意の手記』だったように思います。
罪を犯した人間が生きていていいのか?
「罪と罰」をテーマとして描いた作品でしたが、主人公が最後は生きようとした姿が印象的で、その後の彼の作品の転換点となった作品でもあったように思います。
まあ、めっちゃ暗くて狂気に満ちているんですけどね(笑)
ファンの間では有名なあとがきの「共に生きましょう」は、そんな希望が見いだせないような無明の闇の中でも生きることの大切さを説いているように感じます。
たとえ物理的に傍にいなくても、同じ想いで闇を抱えながら1歩ずつ歩を進めている誰かがいる。
誰ともわかりあえなくても、中村文則の物語が寄り添ってくれる。
そう思うと、また歩き出す勇気が湧いてくるのです。
『彼の左手は蛇』でも深い混沌と絶望の果てに、山際から射し込む朝日を見たような気持にさせられました。
5、終わりに
実家に帰って、ひさびさに親友に再会した。
2年ぶりに中村文則の小説を読んで感じたのはそんなフィーリングでした。
理屈も理由もなく、ただただピッタリ合う呼吸とリズム。
彼の作品が好きな理由はいくつも挙げられますが、とにかく文章を読んでいるだけでしっくりくるというか、楽しいというか、そんなふうに感じました。
というと、だいぶ語弊がありますが、「生きろ」のテーマは同じでしたね。
古き神(蛇神、シシ神)から生きろと言われ、混沌の末に生き延びるのも共通しているのかなと。
主人公がロー・Kから受けた悪しき影響も呪いというに相応しいものでしたし、呪われたことで行動を起こし(旅に出て)、カタストロフィの果てに、神から呪いを解かれて、生きることを選択する。
うん、「もののけ姫」じゃん(笑)
まあ、だから何?って話ですが。
次回作からはまた1年ペースで小説を書くみたいなので、楽しみにしたいですね!!
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