1、作品の概要
『列』は中村文則の中編小説。
2023年10月5日に刊行された。
群像2023年9月号に掲載された。
152ページ。
列に並ぶことを通して、相対的にしか感じられない現代社会における幸福を描いた。
2、あらすじ
「私」は気付いた時から列に並んでいて、なぜ列に並んでいて、自分が何者なのかの記憶をなくしていた。
他者より一歩でも先に進みたい、この列から離れて逸脱したくない。
様々なトラブルに見舞われながら列に並び続けることに固執する「私」だったが・・・。
猿の生態を研究している大学の非常勤講師の草間は、大学院生の石井と一緒に猿の群れを観測し続けていた。
非常勤講師という不安定で低収入な立場。
革新的な論文を発表しようと試みる草間は1匹の雌猿を利用してある世紀的な発見を試みていた。
草間の回想が列へと繋がる時、この世界の真理の一端が溢れ出す・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
だいぶ前から「初期っぽい短めな作品を書いてます」という、中村文則自身の文章を読んで長らく楽しみにまっておりました。
中村文則はとても好きな作家で、今後よっぽどのことがない限り、彼の新作を買い続けると思う。
よっぽどのこととは、中村文則が急にコテコテの恋愛小説を書きだしたり、僕自身がラノベしか読まなくなったりとかそんな急激な変化を言うが、まぁまずないだろう。
そんなわけで彼が2年半かけて書いた『列』を心して読みました。
この小説は僕にとってまた特別な1冊になりましたし、中村文則という作家が、また新しい扉を開けたんだなと感じさせられるような作品になりました。
4、感想(ネタバレあり)
①第3期の幕開け。これまでとこれから。
この『列』は中村文則の第3期の幕開けで、ここからまた彼の小説の新しいフェイズが始まるとのこと。
第3期がどのようなものになるのか?を語る前にそもそも第1期と第2期ってどこからどこまでやねんってことを語ってみようと思います。
第1期がどこまでの作品を言うのか、僕が度忘れしているだけかもしれませんがよくわかんないっす。
ただ、一応ナカムラーを名乗っている身として私感を述べさせていただくと、『銃』から『世界の果て』までが第1期作品で、『掏摸』以降『カード師』までが第2期作品に当たるのではないかと思います。
第1期の作品では、世界と自分の対峙、世界から省かれてしまった自分を描いているように感じました。
初期作品では、バッドエンドも多く、そこがたまらなく好きでもあるのですが、救いがない作品も多くありました。
ソーニャに出会えなかったもしくは亡くしてしまった、ラスコリーニコフたちの物語でもあったように思います。
自らの生い立ちからくる歪みを繰り返し描いていたのが特徴的でした。
第2期のテーマは悪と運命。
物語はどこまでも主観的で、純文学的だった枠を超えて、まるで災厄そのもののような悪とそれに翻弄され続ける運命を背負ったか弱き者たちについて描かれています。
また第1期の作品のような生い立ちの暗さや、歪んだ性癖を表現しながらも、ミステリー作品として昇華した『迷宮』『去年の冬、きみと別れ』なども印象的でした。
そして、『教団X』『逃亡者』『カード師』で総合小説的な、複数の人間の人生そのものを俯瞰するような大きな作品を書くことで、中村文則の文学はひとつの結実を得たように思います。
これらの作品は中村文則にとってひとつの到達点だったのではないでしょうか。
到達点に達してしまったあとにどこへ向かえばよいのか?
600ページ書いたら、次は700ページ?
『カード師』の刊行後、作家20周年を迎えた中村文則にとって、今後どんなことを書くのかということは転換点として重要なことで、だからこそそう長くない作品である『列』の完成に長い時間をかけたのだと思います。
では、第3期のテーマとは何でしょうか?
『列』の内容から妄想するに、この国の社会の成り立ちと、人間の本質、その生きづらさみたいなものではないかと思います。
ん?ありきたり?
最近、政治的発言も多かった中村文則が、一時期の村上龍みたいな感じになっちゃうのかなとも思っていましたが、原点回帰的な意味も含めて人のエゴや欲望についての作品を書いたのは僥倖でした。
さまざまな作品を通過した上で、人が生きる上で自らを縛る何かを描いたのは意味深いことで、今後の作品もとても楽しみです。
ただ原点回帰と言っても『列』は、初期の中村作品にみられたような主人公の不幸な生い立ちと、そこから生まれた歪みを抱えながら自らの狂気に翻弄されていくというような作品ではなく、主人公が他者との関わりを通して人間の本質へと迫っていくような作品だったかと思います。
物語の舞台を狭く限定的にして、ストーリー性エンタメ性より、人間の内面を掘り下げたという意味での原点回帰で、そういった意味でそのまま初期のような作品を書くというわけではないのでしょう。
②列が意味するところとは?
ーこの世界には列が多すぎる。
の文言から始まるこの物語。
自分が何者かも、何のために並んでいるのかもわからないまま、ただひたすらに並んでいる人々。
どこでもよく見られるようないさかいや、矮小なやり取りが描かれていきます。
レジで並んだり、遊園地で並んだり、車の渋滞で並んだり。
現実的な意味での列においても、様々にエゴの発露を感じる瞬間は多いです。
かく言う僕も、こっちの列が早いかもとレジの列を並び替えて逆に遅くなったりとエゴ丸出しの失敗をすることがあるので、最近は綺麗なお姉さんのレジに並ぶというエロ丸出しの行為に走っているたりもします。
閑話休題。
この小説で繰り返し出てくる列とは、現代社会における様々なヒエラルキーの高低のメタファーだと思います。
年収、学力、容姿・・・。
人間が感じる幸福はすべて、他者との比較がなされる相対的なもの。
相対的にしか、幸福を感じられないという呪い。
たとえば中世のヨーロッパにおいては絶対的な身分制度があって、列はあっても一列だったのかもしれませんが、自由民主主義が社会における人々の平等を謳い始めてから、かえって人々が幸福を感じるための列はいくつもできてしまっているのかもしれません。
「だれも列から逃れられない」という帯の言葉は、他者と比べることでしか幸福を享受できない人間の不幸を訴えているように思います。
学生の頃に並んでいた学力の列から解放されても、社会に出ると年収の列に並ぶようになる、誰かの脱落で一歩前に進んでも、まだ果てしなく前に並んでいる人々がいる。
それでも、後ろに並んでいる人間を振り返れば、もしその数が多ければ一定の幸福感を得ることができるかもしれない。
そして、そのうちパートナーの容姿や年収、結婚後の住居(一軒家かマンションかタワマンの何階か)、子供の学力など様々な列に並ぶことになる。
逃れようもなく。
そもそも偏差値や、平均年収というのも相対的なものでしかないし、他者との比較でしか自分の幸福度合いを測れない。
自分の前後に誰かが並んでいないと、自分が幸福かどうかもわからない。
「ここには柵も線もありませんから、私たちが全員で、こういう状態をつくってるだけで・・・。でも仕方ないですよ、そういう習性なんでしょう。それに幸福の実現量は限られてる。量は同じまま増大させるには、後ろに人がいないと。比較して優越を感じたり、羨ましがってもらわないと」
③列とは何だったのか?空想と現実の狭間。
物語の構成は3部構成で、1部は記憶がおぼろげな「私」がひたすら列に並び続け、前後の人間といろいろなやり取りがありながら最後には列を離れ、2部は生物学者の草間が雪山の山中で、大学院生の石井と猿の観察をしながら逸脱した行動に走っていきます。
1部の列の話は、とても現実とは思えないシュールな世界観でわけもわからないままそんな世界で列に並ぶようになった「私」の話がとても人間臭くていいし、頭上の鳥が記憶を消失させていく様が不穏で好きな感じです。
2部ではそうした1部の列に並んでいた人物が2部の草間=「私」と関係していた人物とわかるような構成になっていて、「おおぅ」って感じになりました。
あいつはあいつなんか!!ん、あいつはどいつ?みたいな感じの物語の構成が面白かったですね。
2部では猿の生態や進化、チンパンジーと人間の相関性と、それによる絶望なんかも描かれていて興味深かったですね。
草間の生い立ちの掘り下げがほぼなくて、父親がいないという一点だけだったのも今までの中村作品にない新鮮な点でした。
3部では列の世界と現実の世界が交錯していく展開。
いやぁ、これも見事な構成で互いに答え合わせをしていくように物語は進んでいきます。
ラスト近くで唐突に人々が列に並び始めたのはとても非現実的な感じがして、手相の男が言うように世界の在り方が変化したのか、それとも列の世界の話自体、死ぬ間際の草間の妄想だか想像なのか?
どちらとも取れるような書き方をしているようにも思いましたし、どちらでもよいのかなというようにも思いました。
物語で描かれている本質が伝われば。
しかし、ムジカザリドリの無数の群れが頭上に現れたことでまるで物語の冒頭にループしたように「その列は長くいつまでも動かなかった」っという文章が。
んんー、痺れる終わりかたですね。
ニクイ。
④幸福論
裏タイトルをつけるなら「中村文則的幸福論」が、今作の『列』ではないかと思います。
いや、他に様々な要素をぶち込んで、よくこの長さに収めたなというコンパクトさですが。
『列』での幸福は他者との比較ありきの相対的な幸福でした。
そもそも相対的とは「他との関係や比較によって成り立つこと」を言います。
現代の幸福は相対的で、他者との関係性がないと成り立たない、というのが今作の大きなテーマだと思いますが、果たして幸福とはそういったものなのでしょうか?
高校時代の友人に模試やテストなどで、「偏差値は気にしない。点数だけ気にする」といった主義の奴がいました。
かなりの秀才だったのですが、平均点が高くてまわりの人間が良い点を取っていても自分の点数が良ければ喜んでいるような奴でした。
当時は、偏差値こそ大事。
他者と比較してどれだけ良い点数が取れたかが大事だと思っていたので、彼の考え方は理解できませんでした。
実際に、大学の試験も他人との比較においてなされるので、自分がどれだけ点数が取れたかと、他の人がどれだけ点数が取れたかによって合否が決まります。
それでも自分がどれだけ点を取れたかで自らを評価し、他者との比較の偏差値を気にしない。
当時は意味が分からなかった彼の言葉と主義が、今では深く腑に落ちています。
自己を絶対的に評価すること。
自分らしく生きる、列からの、相対的評価から脱却の答えがここにあるように思います。
相対的に対して、絶対的とは「他との関係や比較なしに成り立つこと」です。
列に並ぶことなく、自己評価することができる。
相対的幸福の呪いからの脱却の答えはここにあるように思います。
しかし。
我らが中村文則は、相対的、絶対的という論理のさらにその上位の解釈を物語に付与しています。
そもそも人間は、幸福でなくてはならないのか?
列に並ぶ人々のエゴイズムはすべて幸福でならなくてはならないという強迫観念があるように思う。
それに対してのヒントはこの『列』に記されいる。
僕がこの作品で、一番好きな場面だ。
浮かんでいた涙が落ちた。立ち尽くす私の前で、彼は芽を食べ続けている。私に対し、お前は馬鹿だという風に。そうだ。私はずっとこのようなものだった。だから望みを忘れようとしても、ずっと苦しさが内面にあり続ける。私は幸福になれない。私たちは、自分達の人生を正確に判断しようと努めるほど、もう本当に幸福にはなれない。
幸福?目の前の猿が問うようだった。‘何を言っているのだろうか。私は幸福ではない‘彼が私をずっと見ていた。‘私は吹雪のなか芽を食べているだけだ。私はこのようにあるだけだ。君たちの尺度を私達に当てはめるな‘
幸福でありたい。
幸福であろうとするために望みをもち、自分の人生を正確に、相対的に判断しようとすることで幸福になりえないというパラドックス。
それがこの『列』という物語の核であるように思いました。
5、終わりに
とても語りきれないほどたくさんの要素が詰まった物語で、細かい文章の書き方やリズムなども含めてやっぱり僕は中村文則という作家が好きだなと感じました。
いや、あまりひとつの事柄に拘泥したり、1人の人間に依存したりするタイプではないのでが、彼の作品は僕の何かをとても強く惹きつけます。
様々な事件があって、海の向こうで戦争が始まって(村上龍かよ)、もっと広げた物語も書けたのでしょうが、敢えて閉じた物語を書いて人間の本質を鋭く見定めるような作品を描いたことはとても嬉しかったです。
これからも、中村文則という作家の作品を生きる糧に、共に生きましょう。
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