1、作品の概要
『深い河』は遠藤周作の長編小説。
1993年に講談社より刊行された。
書き下ろし。
文庫版で352ページ。
1994年に毎日芸術賞を受賞した。
1995年に秋吉久美子主演で映画化された。
宿業を背負った5人の日本人がガンジス河のほとりで人生の意味を見つめ直す。
2、あらすじ
日本からインド行きのツアーで出会った4人の男女。
磯辺は亡くなった妻が「どこかで生まれ変わるから探して」という言葉に導かれ、美津子は大学生の頃に弄んで捨てたキリスト教信者の大津を探すため、沼田はかつて自らの命を救ってくれた九官鳥に恩を返すため、木口は戦友たちの死を悼むため、それぞれの理由でヴァーラーナスィのまちを訪れ、ガンジス河のほとりに佇む。
そして、ヨーロッパにおけるキリスト教に馴染めず、異端視されていた大津は、新婦でありながらヒンズー教徒のアーシュラムに身を寄せていた。
彼は、ガンジス河で最期を迎えるためにヴァーラーナスィにやって来ながら、途中で行き倒れた人たちを背負って、河のほとりまで運ぶ活動をしていた。
5人の葛藤、悔恨、宿業をすべて受け止めて、聖なる河ガンジスは流れていく。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
大学生の頃に読んで以来、20数年ぶりに再読しました。
当時、キリスト教の大学に通っていて、賛美歌とか歌う合唱部に所属していたもので、キリスト教のタブーに踏み込むような作品を書いていた遠藤周作の作品をいくつか読んでみていました。
『沈黙』『イエスの生涯』など難しい内容のものが多かったですが、考えさせられる内容でした。
『深い河』は歳を経て、自分の人生で得たものと、失ったものに思いを馳せながらより大きな意味を含んだ物語として味わうことができたように思います。
いつかは再読したいと思っていた作品でしたが、このタイミングで再読できてよかったです。
4、感想(ネタバレあり)
心の奥深くまで届いてくる祈りような、壮大で何重もの意味を帯びた物語でした。
美津子、大津、磯辺、沼田、木口の5人は、それぞれ生きているうちに抱え込んでしまった懊悩や、悔恨などを抱えながら、ヴァーラーナスィのガンジス河のほとりに辿り着きます。
一人一人の人生と、そこで生まれた課題ややり残したことなどが丹念に、ドラマティックに描かれていて、深い共感を覚えながら読み進めました。
若いころに初読した時には、少し重たいものを感じたようにも思いましたが、文章も平易で読みやすく、するすると読み進められたような印象でした。
①磯辺、沼田、木口について
磯辺のエピソードから物語は始まりますが、団塊の世代あたりの典型的な夫婦で、男は外で仕事をして、女が家を守る的な感じでお互いが空気のような存在でした。
しかし、妻が末期がんでこの世を去り、今わの際に放った「わたくし・・・必ず・・・生まれかわるから、この世界の何処かに。探して・・・わたくしを見つけて・・・約束よ、約束よ」という言葉が磯辺の心を強く捉えて、妻の死後もうまく立ち直ることができませんでした。
悲しくも、とてもロマンティックなエピソードですが、ずっと傍にいてもどんな思いで連れ添っていたのかお互いの心うちはわかってなかった。
もしかしたら、失う間際になって、また実際にいなくなってみて初めて痛感する愛情というものもあるのかもしれませんね。
インドにいると言われていた妻の生まれ変わりに出会うことはできませんでしたが、まるでかくれんぼのように妻の面影を探した旅は、磯辺にとって妻の心と思い出を捜し歩く旅でもあったのだと思います。
そして、人々の想いを受け入れて流れていく河で、自らの気持ちを浄化することができたのではないかと思いました。
沼田は童話作家ですが、子供の頃に悩まされいた両親の不仲に傷ついた心を犬に癒されたことがあり、以来ずっと動物に心を癒されてきました。
彼の書く童話が動物と人間の交流を描いているのもそのあたりにルーツがあるのでしょう。
重い病で死にかけた時に、まるで自分の身代わりのように死んでしまった九官鳥。
インドで彼が買って放したのは別の九官鳥ですが、命を助けてもらった恩返しをしたいという思い。
なにか儀式めいた真剣さと祈りを感じました。
そんな沼田の想いもガンジス河の豊かな水に溶け込み、流れていきます。
木口は大東亜戦争の折に陸軍としてビルマのインパール作戦に参加し、食糧難とマラリヤで地獄のような敗走を続け、死にかけたところを戦友の塚田に救われます。
しかし、塚田は戦友の人肉を食らって生き永らえたことで、罪の意識に苦しみ、病を得て亡くなります。
ビルマで命を落とした戦友たち、そして塚田に対して弔いたいという強い想いが、木口を仏教発祥の地であるビルマにまで足を運ばせました。
地獄のような苦しみを経て繋がれた生。
木口は、誰にも打ち明けられなかった重い十字架のような凄惨な戦争体験を、美津子に打ち明けますがガンジス河の包み込むような何かによるものだったのでしょうか?
②美津子と大津
本来なら全く住む世界の違う2人。
しかし、大学生時代に朴念仁の大津を面白半分で誘惑し、自分に夢中にさせておいて、あっさりと棄てた美津子。
クソビッチです。
その後もなぜか大津のことが気になり、フランスのリヨン、そしてインドのヴァーラーナスィまで会いに行ってしまう美津子。
恋愛感情では決してなかったでしょうし、なぜこうまで大津に固執したのでしょうか?
僕が思うには、「愛を知らない」と自分でも思っている美津子が、不格好に神の愛にすがる大津の姿に何かを感じたからではないでしょうか?
はじめは言語化できずに、しかし気になる存在として大津の消息を追い続けている。
離婚した夫や、大学時代の遊び友達、気まぐれに出会う行きずりの男たちと体を重ねても、虚しさを感じるだけ。
愛を知らない空虚な人間だった美津子が何かを感じていたのが大津という卑小で、なんのとりえもない男でした。
実家も裕福で、幸せな結婚をしたはずだった美津子でしたが、心は満たされず、その心はモーリアックの『テレーズ・デスケルウ』のテレーズと重ね合わせられます。
大地主の夫と愛のない結婚をして、毒殺を試みるテレーズ。
夫との新婚旅行中に、夫と別行動で、テレーズの足跡を追うようにランドの街を旅する美津子の心理描写が良かった。
この結婚がうまくいかないだろうことを暗示していましたね。
そして、遠藤周作も美津子と同じようにランドへと旅をしたのでしょうね。
リヨンで美津子は、神父になるべくリヨンの教会にいた大津と再会しますが、大津は日本にいた時と変わらない要領の悪さで、他の神父からも異端視されていました。
しかし、誘惑して信仰を捨てさせたはずの大津がなぜ神父になるべくはるばるリヨンの地までやってきたのか?
堕落したはずの彼がなぜ?
大津の答えは驚くべきもので、彼はクルトル・ハイムで何者かの声を聴いたのでした。
「おいで、という声を。おいで、私はお前と同じように捨てられた。だから私だけは決して、お前を棄てない、という声を」
その声は、主・イエスのものだったのでしょうか?
いや、ただの幻聴だったのでしょうか。
しかし、大津はその声を聞いて人生を決め切って、神にその身を委ねた。
愛欲に溺れて、あまつさえ美津子に棄てられて、そんなみじめさ、醜さを、全く別のものに転じて導いた。
計り知れない神の御心と秘蹟を、大津は語ります。
神は手品師のようになんでも活用される、と。
物質的に満たされて幸福であるはずの美津子。
でも、心は空っぽで愛も知らず、自分が何をしたいのかもわからない。
1993年当時、バブルの余韻で物質至上主義でカネとモノとステータスが全てだった日本人。
美津子は、その象徴のような存在だったのかもしれません。
バブルが弾けたあとに「自分探し」といううすら寒いワードが流行ったりもしましたが・・・。
自分が本当に欲しいもの。
自分を自分化すること。
あるべき姿で、自然な心の動きで生きること。
さまざまなバイアスがかかった現代社会においては、こんな当たり前の生き方さえ難しいのかもしれませんね。
そんな自然な心の動きを持った無垢の魂。
美津子が大津を気にかけ続けていたのは、そんな彼の生き方に自分にないもの、探し求めているものの欠片を見出したからなのかもしれません。
たびたび大津の姿がイエスに重なりました。。
みじめでみすぼらしい存在だが、悲しみを担って背負っている。
彼は醜く、威厳もない。みじめで、みすぼらしい
人は彼を蔑み、見すてた
忌嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる
まことに彼は我々の病を負い
我々の悲しみを担った
③キリスト教と汎神論
遠藤周作が生涯をかけて描いたテーマ「キリスト教と日本人」の集大成的な作品が『深い河』でした。
いやね。
キリスト教のことを描いた物語の舞台がインド、ってさ。
昔はなんとも思わなかったけど、だいぶ挑戦的というか、冒険してますね。
釈迦が生まれた仏教の国でキリスト教の物語を描くって、イスラエルを舞台に仏教の物語を描くぐらいのインパクトありますよね(笑)
アメリカが舞台のラーメン漫画とか、インドネシアが舞台のハンバーガー作りの物語とか、それぐらいの驚きが。
もちろん、それは思いつきの舞台設定ではなく、凝り固まったヨーロッパのキリスト教へのアンチテーゼであり、日本という国でキリスト教が息づくための在り方を提示しているように思います。
アニメの『チ。地球の運動について』、平野啓一郎『日蝕』でも感じましたが、中世ヨーロッパの異端審問の苛烈さと偏狭さ。
僕は、あまりキリスト教の歴史に詳しくはないのですが、他の神や思想を認めないような偏狭さ、厳格さがあるように感じました。
大学生時代にグレゴリオ聖歌とか、ミサ曲とか歌っていたので、キリスト教は身近でその教えに共感する部分も多いので全否定するわけでは決してないのですが・・・。
「いいやつなんだけど、ちょっと神経質なとこあるよね」っていう友達みたいな感じっすかね。
親がクリスチャンであったために、選択の余地なく自分もクリスチャンとして生きることを余儀なくされた人生。
最近、某宗教の2世問題とか取りざたされましたがね。
クリスチャンだった母親の影響でクリスチャンになった大津の姿に遠藤周作の姿が重なりました。
自分で選んだわけではなく、生まれた時から息を吸うようにそこに在った信仰。
そんな神と自分との関係性を見つめ直す中で生まれたであろう、日本的キリスト教についての考察。
遠藤周作が辿り着いたのは、汎神論的なキリスト教の在り方だったのでしょう。
そもそも、もともとあった土着の神道が根付いた日本という国に仏教が輸入されて、神仏習合よろしく仲良く同居して、あまつさえクリスマスにはキリスト万歳のここが変だよ日本人。
無宗教だと自認している日本人ですが、実は息を吸うように八百万の神々を自然に受け入れている特異な民族なのかもしれません。
なぜ、日本人の宗教の在り方がそのような形であるかというのは、アニミズム文化が大きく関係しているのではないかと思います。
道端の道祖神に手を合わせ、なんかめっちゃでかい石にしめ縄をして神を感じ、樹齢1000年とかのデッカイ気を神木とか言ってしめ縄をしてめっちゃリスペクトする。
この世界の全てに神が宿るという汎神論的な考え方ですし、他宗教の他の神を受け入れる柔軟さが日本人の精神には宿っているように思います。
そういった、おおらかさ。
無宗教とか言いながら、息を吸うようにそこかしこに神を感じる日本人が信仰するキリスト教は、おそらくヨーロッパのキリスト教とは大きく違うのでしょう。
そして、遠藤周作が世界に向けて提示しようとした日本的なキリスト教の在り方。
ガンジス河のほとりで、イエスのように十字架を背負った大津の姿に、信仰の多様さを託し、訴えた物語であったように思います。
④ガンジス河
インド行ったことないどころか、海外に出たことないミスタードメスティックなヒロ氏ですが、たぶんインドに行ったら秒でお腹を壊す自信があります。
胃腸弱いマンなんでね(;^ω^)
しかし、インドの国民性やらなんやらは興味ありますね。
ソースはジョジョの3部とか、藤原新也『メメント・モリ』ですがね。
キリスト教は生まれ変わりはタブーな宗教ですが、そこに真正面から輪廻転生である死と生そのものの河であるガンジス河をぶつけている。
そこから転じて「転生」をなにかその人の命や、生き様が誰かに受け継がれていく様のように語っています。
磯辺の妻が、磯辺に転生している、ということ。
彼の心の中に妻の思想、生き様、記憶が強く照射されることはもはや転生であるのではないか?という問いかけに感じました。
ガンジス河は清濁併せ吞むようなスケールの大きさで、豊かに流れて、全てのことを受け入れていきます。
生と死。
転生と解脱。
万物は流転する。
河はやがて海へと至り、命と溶け合う。
そんな剝き出しの命の脈動。
宗教も、神をも超えた、もっと大きな真理と世界の摂理を体現するような聖なる河ガンジス。
『深い河』はそんなガンジス河の大きな力に魂を震わせ、人生を変革させた5人の物語であったのだと思います。
「信じられるのは、それぞれの人が、それぞれの辛さを背負って、深い河で祈っているこの光景です」と、美津子の心の口調はいつの間にか祈りの調子に変わっている。「その人たちを包んで、河が流れていることです。人間の河。人間の深い河の悲しみ。そのなかにわたくしもまざっています」
5、終わりに
いやー、心に深く突き刺さるような、魂の奥深いところで響き合うような、重厚な物語でした。
読みながら、頭の中でインドのガンジス河を舞台にMVが撮られた藤井風『grace』が繰り返し流れていました。
作中で頻繁に取り上げられていたモーリアックの『テレーズ・デスケルウ』ですが、遠藤周作訳の文庫が刊行されており、ソッコーでアマゾンでポチりました。
近々、読む予定です。
『深い河』の前に、三島由紀夫『愛の渇き』を読んでいたのですが、モーリアックの文体を参考に書いたと記されており、偶然にも読んだ本2作続けてモーリアックと関連した作品を読みました。
こういう偶然に運命を感じるタイプで、やっぱ流れ的にモーリアックが読みたくなりました。
読書しててて、こうやって次々に繋がりが生まれて読みたい本が増えていくのが面白いですね。
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