☆あれから11年☆
東日本大震災が起きた2011年3月11日。
あれからもう11年が経ったのですね。
そして、福島第一原子力発電所の事故。
多くの人々の命が奪われ、家も故郷も失いました。
今、現在も避難所で避難生活を続けている方たちは4万人近くおり、自主避難をしている方たちを含めるともっと多くの方たちが慣れ親しんだ土地を追われて避難生活を余儀なくされているようですね。
僕は地元好き人間なので、自分の郷里がこんなに変わり果ててしまって、戻ることができない状況を想像するととても辛いです。
原発の廃炉もなかなか進んでいないと聞きますし、改めて原子力発電所のリスクの高さを感じます。
折しもロシア軍の侵攻により、ウクライナの原発が驚異にさらされています。
チェルノブイリ、サポロジエの原発は占拠されて、電力の供給がストップ。
情報が錯綜していますが、余談を許さない状況にあることは間違いありません。
☆被災地から850km離れて感じていたこと☆
2011年3月11日14:46
その瞬間、あなたはどこで迎えましたか?
僕は被災地から850km離れた愛媛で仕事中でした。
お客さんの家でテレビがついていましたが、迫り来る津波の映像に唖然としました。
家に帰ってPCを開いて、SNSをチェック。
当時はまだFBとmixiがメインだったかと思いますが、関東に住んでいる友人たちが電車が停まって歩いて帰っているとのこと。
関東圏にも震災の影響が及んでいて、被災している人々がいました。
義理の兄も数十キロの道のりを夜通し歩いて帰ったと言っていました。
TVのニュースももちろん東日本大震災のことばかりで、押し寄せる津波の映像と津波火災で炎上する街の映像が繰り返し流されていました。
まるで地獄のようで現実離れした映像。
多くの人の命が失われました。
そして、原発の事故のニュース。
東日本がチェルノブイリのように死の大地になる危険性が繰り返し報道されていました。
増え続ける犠牲者と、福島第一原発の危機的状況。
当時のインターネット、SNSは集団ヒステリーとも言うべき状況で、様々な情報が飛び交っていて人々は分断されて罵り合っていました。
日本中に殺伐とした空気が蔓延していたように思います。
でも白石一文が『火口のふたり』でも書いていましたが、西のほうでは少し他人事というか、やはり実感が薄い部分があったかもしれません。
僕も実際に被災はしていないので、何か妙な罪悪感というか決まりの悪さがあって、被災地から遠く離れていつもと同じ日常が繰り返されていることに奇妙な違和感を感じていました。
当時、現実的にできることといえば募金することぐらいで、友人が紹介していた被災地に直接行って支援している団体に僅かですが募金もさせていただきました。
TVのCMは自粛でACのCMだらけになって、毎日「ぽぽぽーん」でしたね(笑)
あれにも何だか気が滅入りましたが、被災していない自分がそんなふうに感じることもおかしく思えて、また妙な罪悪感に苛まされていました。
あらから11年。
かつてこの国で起きた惨劇を忘れずに子供たちに伝えていくこと。
募金すること。
それが僕にできるわずかなことだと思います。
東日本大震災でお亡くなりになった方々のご冥福をお祈り申し上げます。