1、作品の概要
『われもまた天に』は、2020年9月25日に刊行された古井由吉の短編小説集。
2020年2月18日に他界した古井由吉の遺作となった。
『雛の春』『われもまた天に』『雨上がりの出立』『遺稿』(未完)の4編の短編小説からなる。
単行本で139ページ。
『新潮』2019年7月号~2020年5月号に掲載された。
2、あらすじ
①雛の春
立春の2月4日。
入院先の病院で聞く夜の車の音、人の話し声。
記憶は巡り、2人の娘のために飾った雛人形を思い、雪の夜に女とすれ違ったことを思う。
②われもまた天に
寒々しい春が凶年を予感させ、寒々しい5月。
漢文から、生れる前は天の内に在って五行の運行のままであったわれも、生まれた後は天は心のうちに在って五事を支配することを思う。
外出する際の歩行の困難さに辟易し、過去に登山中に土砂に巻き込まれそうになったことを思い出す。
③雨上がりの出立
6月の梅雨入り。
次兄が亡くなった折に、長兄、姉、両親の死にまつわる記憶を思い返す。
悪尉の顔と、つつましい死。
真夏の夜に蘇る、戦時下
④遺稿(未完)
9月になって台風がいくつも行き過ぎる。
以前、頚椎が狭窄して歩行不能の手前まで行ったことを思い出す。
不可思議な文字が天井に浮かび、ベッドが走る幻覚を見る。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
古井由吉は以前から気になっていた作家で、図書館で見かけたので薄かった『われもまた天に』を借りてみました。
まさか遺作だったとは・・・。
装丁もどことなく喪に服しているような色合いですね。
ご冥福をお祈りいたします。
日常を淡々と描きながら過去と幻想と、死の予兆が入り混じっていくよな私小説的な作品でした。
4、感想
全体を通して随想のような、私小説のような短編小説たちでした。
徒然なるままに、日々のよもやまごとを書き綴っているようですが、そこに季節の移り変わりや、時代の変化などを独特の研ぎ澄まされた無駄のない文体で表現しているのがとても印象的でした。
例えるなら、居合道の達人みたいな印象を受けました。
無駄のない所作、怜悧な太刀筋、一瞬の抜刀。
過去への回想が幻覚とも交じり合って、ほのかに死への予兆が香る。
4編ともそのような印象を受けました。
①雛の春
立春から3月に入り少しずつ春に入っていく様が書かれています。
こちらの文章など情景が浮かぶようで良いですね。
三月に入ってまた雨の日になった。終日、降ったり止んだりして、テラスの胸壁の上にわたされたまるい管の手摺りに、雨の滴が並んでさがった。そのなかに白い光を先端に珠のようにふくむ滴があり、その細い輝きを眺めていると、やがてポトリと落ちる。
自分の娘たちに飾っていた雛飾りの記憶が、敗戦の年に家ごと焼けてしまった雛の記憶に結びつく。
燃えゆく生家の2階の雛を思い、鬼火の幻影を見る筆者。
凶事と重なり、どことなく不吉の印象を持つ雛の代わりのように能面を好むようになるが、どことなく妖艶さを感じるようなくだりだと思います。
雪の夜に見知らぬ女性とすれ違う描写も、官能的でどこか川端康成を思わせるような文章でした。
②われもまた天に
吾のいまだ中気を受けて以って生まれざる前、すなはち心は天に在りて、五行の運行を為せり。吾のすでに中気を受けて生まるる後、すなわち天は吾の心に在りて、五事の主宰を為せり。
5月に雹が降り、冷え込みから凶年を思わせるような気候。
転じて上記の漢文の訓み下しですが、生れ落ちる前はかつて天に在って五行の理のうちにあって、生まれる際に中気を受けて生まれる。
生れた後は五事をもとに生を営みながらも、心は天にある。
中気とはなにかなど思索を巡らせる古井由吉ですが、やがて天に還る自分の行く末を暗示しているようにも感じました。
陰陽、五行など、風水的な考え方ですね。
人はかように天地を廻りながら死生を重ねていく。
かつて登山中に地滑りに巻き込まれそうになった記憶から、すでに死んだ家族と、生者の自分が入れ替わったような不思議な妄想が印象的でした。
老境に差し掛かって、すでに生の中に死は満ちてある種の親和性を帯びてさえいるような。
そのような古井由吉の心情を想起させられるような文章でした。
③雨上がりの出立
次兄が亡くなったことをしおに両親、姉、長兄の死を思い出す筆者。
名僧の言葉を用いた思索も、どことなくやがて来る死を受け入れる準備をしているようにも思えます。
死にとうないとは、往年の名僧であったか、末期の床からつぶやかれた言葉と伝えられ、聞く人によっては、偉い人でも行きつくところ、そんなものかと妙に安心させられるようだが、私には近頃、どうして豪気な、よほど充分に生きた人の言葉に思われる。
記憶と幻想が入り混じり、妖しげな美が立ち上がる。
川端康成『みずうみ』『眠れる美女』などの魔界を想起させられるようでした。
特に台風前の夜空に沸き立つ積乱雲の描写が秀逸でした。
漆黒の空に白い積乱雲が立つ。炎天の昼間よりもよほど盛んに沸きあがる。その雲間に星がひとつまたたいて、漆黒の闇と見えたのは、積乱雲に犯される夜の晴天だったと気がついた。そしてふくれあがる積乱雲が、怒った目を奥に潜めて、星を犯してからさらに、定められた役目をいよいよ果たそうとする、天の眷属の姿に見えてきた。
夜中に積乱雲が出ているのを見たよ、ってだけの文章がこれほどの妖しげな魅力を放つとは恐れ入る。
④遺稿(未完)
古井由吉は、いまわの際まで作家であったということなのでしょうか。
凶事をもたらす天才に慄き、病魔に蝕まれる自身の肉体を想い、かつてあった肉体の危機を思い起こす。
全体的に暗いトーンなのですが、淡々としていて悲壮感は感じられず、粛々と運命を受け入れているように感じます。
自分が何処の何者であるかは、先祖たちに起こった厄災を我身内に負うことではないのか。
5、終わりに
以前から気になっていた作家だったので、今回読めて良かったです。
初期、中期の作品もこれから読んでみたいですね。
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