1、作品の概要
『劇場』は又吉直樹の長編小説。
『新潮』2017年4月号に掲載されて、同年5月に単行本が刊行された。
単行本で207ページ。
表紙の装丁には、大竹伸朗『路上Ⅰ』が使われている。
2020年7月に映画化された。
東京で演劇にのめり込む永田と、彼を支える沙希の物語。
2、あらすじ
演劇に魅せられた永田は高校の友人・野原とともに上京して劇団「おろか」を結成。
劇団は上手くいかず、酷評される毎日の永田だったが、偶然路上で出会った沙希と付き合いだし彼女の家に転がり込むようになる。
夢を一心に追い続け演劇の脚本を書き続ける永田だったが、次第に自らの才能のなさを自覚するようになり自堕落な生活をするようになる。
そんな永田を懸命に支えて、愛し続ける沙希。
そんな2人の蜜月の日々に少しずつ亀裂が入り始めていく・・・。
3、この作品に対する思い入れ、観たキッカケ
映画『劇場』のほうを観ていたのですが、青春っぽさや恋愛要素もありながら、表現者として演劇に向き合う永田の苦悩と、健気に支え続ける沙季の優しさが描かれていて心に沁みる映画でした。
原作を読んでみて、映画がだいぶ原作を忠実に表現していたこと。
ラストシーンの現実と演劇が入り混じるようなめっちゃいい感じの仕掛けは映画オリジナルだったことに気付きました。
小説という媒体でこそ明確に表現できうる永田の表現することへのこだわりと覚悟。
そういった部分が改めて感じられました。
4、感想・書評(ネタバレあり)
青春小説でもあり恋愛小説でもある『劇場』ですが、映画ではその青春と恋愛の側面がクローズアップされていて、原作の小説のほうでは永田の視点から創作に向き合うことの尊さ、途方もなさが中心的に描かれているように感じました。
それぞれのメディアの特性をよく活かした表現の仕方の違いというか、小説のほうではより深く永田の心理や2人の関係性の変遷などについても掘り下げられていました。
なんだか身を切られるようなキツい場面も多く、「あっ、ちょっと待って。辛い辛い」って感じで一旦読むのを中断したことも。
永田の不器用な生き方と沙希の優しさが時にすれ違ったりするところが、なにかしんどかったですね。
沙希は本当にいい子でめちゃくちゃ優しくて、永田のことを全て受けて止めて、心の底から尊敬しています。
いやー、こんないい子おらへんわぁ。
そもそも永田との出会いも異質で、あんな怪しい声のかけられかたをして一緒にお茶をして、しかも奢って連絡先まで交換しちゃうとかどんだけお人好しなん!!って感じです。
でも、それだけじゃなくて、ダメ男にハマってしまう素養みたいなもんが沙希にあったようにも思います。
なんでこんな男に?みたいなダメ男にハマってしまう女性。
私が支えなきゃって思ってしまうのか?沙希の場合は共依存関係的なものもあったのか?
彼女にとって永田との時間は現実から目を背けて、モラトリアム期間を謳歌するものでもあったのかもしれません。
でも、永田にとってはそんなモラトリアムな時間は日常で、沙希にとっては若い間だけの仮りそめの時間で・・・。
そこに齟齬が生まれたのも、2人の関係性が変容していった要因だったように思います。
ただ又吉直樹もあとがきで書いていましたが、変わらない人間なんていないし、人間性が変化することで関係性も変化していく。
価値観も人生観も違う2人がずっと同じ関係性でいられること自体が不自然なのだと思います。
そういった変化をお互いに受け入れられて、その都度関係性を再構築していけたら良いのだけれど、若い頃にそんな懐の深い態度を取ることなんでできないですよね。
だから傷つけ合ってすれ違っていく。
沙希と永田の恋愛はそうやって終わっていきますが、(たぶん)6~7年という長い時間をかけて関係性の変容を丹念に描いています。
そして永田の狂気ともいうべき演劇と表現することへのこだわりと傾倒。
ただ単純に成功したいとも違う、自分が求める表現、一瞬の奇跡的な瞬間、演劇の舞台でしか起きえないようなその刹那の燃焼。
演劇に、表現することにとりつかれているとしか思えないような永田の狂気。
彼の日常におけるディスコミュニケーションや、奇異な言動すら、創作への肥やしのようにも思えてきますし、それだけ表現者としての自分が全部なのだと思います。
それ以外は、何もない。
演劇と表現することを取ったら空っぽな人間。
ある種そこまで振り切った生き方ができる永田という人間に憧憬すら覚えました。
でも、彼はポオズやファッションでそういう生き方を選んだのではなく、そもそも選択の余地すらなくて、そのような演劇と表現することに拘泥して生きるように生まれ落ちてしまったのでしょう。
呪いのように、自分の全てを演劇に捧げる幸福な地獄。
それが永田という男を語るキーワードのように思います。
そして又吉直樹が『火花』『人間』でも漫才師と小説家という職業の違いはあれ、表現者たちの苦悩を物語の中心に据えた理由。
一見、夢を追いかける青春のように(実際に青春小説の要素もあるけど)描く部分もありながらも、全体的に陰鬱さが漂っているのは又吉直樹のキャラクターが暗いからではなく、そういうふうにしか生きられないというある意味での表現者としての呪いを描いたからではないでしょうか?
それでも表現者として生きることの途方もなさ。
終わりのない幸せな地獄。
99の失敗と艱難辛苦の上に燦然と輝く、たったひとつの奇跡的な瞬間。
その光り輝く表現者としての恍惚を知ってしまうことで、さらなる地獄にのめり込んでいく。
そんな苦楽を描いた作品でもあったと思います。
5、終わりに
沙希が壊れていって、自分からも心が離れていって、っていうかそもそも永田が沙希から距離を取ったのが良くなくて。
ただ一緒にいさえすればもっとうまくいっていたこともあったのかもしれないのに。
「ここが一番安全な場所だよ!!」
なんて言ってくれる人なんてそうはいないし、実際にそうだったんだと思う。
すれ違っていって、もう決定的にダメになってるってわかっているのにそれでも道化を続ける永田と、優しさから笑ってしまう沙希が本当に切なくて・・・。
壊れたものは直らないし、時間は巻き戻らないけど、それでも目を逸らして昔みたいに笑い合えたらって思っているようで。
いや、大体永田が悪いんだけど。
道化をする悲しみみたいな要素も太宰治好きな又吉直樹ならではの表現だったように思います。
おどけた仮面の下が、笑顔だとは限らないのだから。
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