ヒロの本棚

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【本】太宰治『人間失格』~潰えた二つの希望、現出する地獄と絶望~

1、作品の概要

 

1948年に刊行された太宰治の中編小説。

未完の『グッドバイ』を除き、彼が最後に発表した小説になった。

新潮文庫版だけでも発行部数が670万部を突破している。

『恥の多い生涯を送ってきました』の一文はあまりに有名。

葉蔵という奇妙な男の転落人生を、彼自身が残した3つの手記を通して振り返る。

 

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2、あらすじ

 

葉蔵は東北の裕福な家で生まれ育ったが、生まれつき人間が当たり前に感じる感情や心の動きに共感することができなかった。

彼は、周囲の人間にそういった自身の空虚な内面が露見るのを畏れて、道化を演じ続けていた。

中学校時代の同級生竹一にその道化を見破られるも、「すごい画家になる、女にモテるようになる」という予言をもたらされる。

高等学校に進学し上京した葉蔵は、画塾で遊び人の堀木と知り合い、酒と女遊びを覚えるようになっていく。

カフェの女中ツネ子と知り合い恋仲になった彼は心中するが、自分だけ生き残ってしまい、高等学校を退学されられた。

やがて漫画家として生計を立てるようになった葉蔵、無垢なタバコ屋の少女・ヨシ子と知り合い結婚するが、その先に待ち受けていたのは身の毛もよだつような地獄だった・・・。

 

 

 

3、この作品に対する思い入れ

 

初めて読んだのは19歳の時で、「ああ、ここに僕が感じていた絶望と地獄がある。この小説は僕の物語だ」みたいな勢いで容易く共感しました。

思えば、変はふうに自我が全開MAXだったこの頃は何を見ても何を読んでも、「ブーメランのように自分に返ってきていた」という村上春樹の文章そのままに奇妙なぐらいにこの作品に、太宰治という作家にのめり込んでいきました。

太宰治の自伝的小説で遺作となったこの作品にはそれだけ人を引き込むような情念が込められているのでしょうか?

hiro0706chang.hatenablog.com

 

 

 

4、感想・書評(ネタバレ有り)

①『人間失格』は何を狙って書かれた作品なのか?

葉蔵は東北の裕福な家に生まれて何不自由なく育ち、成長しては容姿端麗、病弱ではありながらも勉強もできて、おまけに画才にも恵まれているという誰もが羨むような環境に生まれ落ちています。

しかし、太宰が他の著書で語っていた通り「恵まれているということに対するコンプレックス」を葉蔵も感じています。

いやアンチが多いのはそういうとこやで太宰はん!!って、言いたくなりますがそういうどこまでも繊細で女性的な感性を持っているのが太宰の魅力であり、数々の傑作を生み出した源泉でもあるのでしょう。

 

大庭葉蔵という架空の人物が転落してダメになっていく様を描いた作品でありますが、その転落ぶりにどこかしらエンターテインメント性を感じるのは僕だけでしょうか?

ほとんど遺作になった作品。

遺書としても捉えられたよう『人間失格』においても「ほら、君たちはこういうのが欲しいんだろう?遠慮なく貪り給え」などと悪魔の如き微笑を浮かべる太宰治の姿が思い浮かびます。

内面の葛藤や暗部を取り扱った作品が多いと言われる太宰ですが、この作品の葉蔵のように道化でありながら、むしろサーヴィス精神が旺盛で自信家な横顔が見て取れるように思います。

へりくだった自分を、愚かな自分を見せながらも、そういったわかりやすく嘲笑の的になりうるような存在に安易に石を投げつけて溜飲を下げているようなその衆愚を、彼は冷笑しているようにも僕には感じられてくるのです。

 

人間失格』がこれだけ売れて、大衆に蔑まれながらも広く受け入れられて、文壇は眉をひそめて、太宰が遺した作品が世界を席巻している。

彼は冷笑とともにこの状況を楽しんでいるかのように思います。

もう転生して、又吉直樹とかになっているのかもしれませんが(笑)

 

19歳で初めて『人間失格』を読んでから、44歳で何度目かの再読を果たした僕にはこの作品で太宰治という作家が表現しようとしたことが随分と違って見えますし、絶望を描いた作品という印象は、ある意味で民衆や文壇を自身の人生と遺作で嘲笑するかのような冷笑的な作品へと大きく印象を変えています。

名著を再読する意味というのはそこにあると思うのですが、自分の人生観や思想の変化によって物語が全く違ったものへと変化していって、自分の人生に寄り添ってくれているように思えることがあります。

そういった再読に耐えうる奥行と深みを持った作品であることが、名作の名作たる所以であり、時代を超えて人々の心に深く訴え掛ける力を持つのではないでしょうか?

 

②主観と道化

人間に対して、いつも恐怖に震えおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自身を持てず、そうして自分ひとりの懊悩は胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化けた変人として、次第に完成されて行きました。

葉蔵は自分が周囲の人間と同じように物事を感じて、感情を動かされることがない自分に気づき、決死の覚悟で道化を演じて他者かの弾劾を逃れ、自らの非人間的な部分の露呈を畏れていました。

「人間に対して・・・」なんていう文章を読むとまるで自分が人間ではないようですね(^_^;)

しかし、どこか周囲の人間の粗雑な感覚に溶け込めない自分を感じていたのだと思います。

 

道化は葉蔵自身が編み出した決死の処世術で、人間になりきれていない、何かが欠落した自分を周囲に看破されないように子供の頃から涙ぐましい努力を続けます。

だけど、冷静に考えて田舎の金持ちの子供で、頭脳明晰で、容姿もそう悪くなくて、おまけに画才もあるって・・・。

いや、本当は勝ち組なんじゃ・・・。

彼はクラスでもその学力ゆえに尊敬されたり、女性と親しげに触れ合ったりしますが、そういった立ち位置にも居心地の悪さ、うまく人間として存在していない自分を感じて道化を演じ続けています。

 

これは太宰自身が感じていたコンプレックスでもあり、繊細な彼を死に追いやったモノだったのかもしれませんが、彼が著書で「恵まれているゆえのコンプレックスというものがある」みたいなことを言っていたのを思い出します。

まぁ、市井の人間にとっては鼻につく部分であり、だからアンチが存在するのかもしれませんが(^_^;)

 

僕も他者の機嫌を伺って道化を演じ続けているような人間で、少しだけ葉蔵の気持ちを理解できるような気がします。

ただの八方美人と言えばそれまでなのですが、人間の悪意が恐ろしくて、どうにか笑わせて場が不穏にならないようにしたいという気持ちが強いですし、たとえその悪意が自分に向けられていなくても、何故か必死に場の不穏な空気を収束させたいというような気持ちが強くあります。

「負けるが勝ち」が座右の銘のひとつでもあります。

 

でも、簡単に相手に負けられる人間って、実は深いところで自分に自信を持っている人間のような気もしますし、葉蔵もたとえ自分が人非人であったとしても何者かにきっとなれるという自信や自分自身の核を持っていたかのようにも思えます。

 

③ヨシ子が汚された意味、本当の地獄

又吉直樹『人間』の中で、ヨシ子が犯される場面について語られています。

太宰は処女性にこだわっていたのか?

ドストエフスキー罪と罰を対義語として捉えていたのか?

 

葉蔵が人間として、人間が生きる世の中に希望をもって生きようとした瞬間が2つあったと思います。

ひとつは竹一とのやり取りの中で、「お化けの絵を画くよ」と宣言する場面。

それまで空虚だった彼の人生に光が灯り、目標ができた瞬間であったと思いますし、過去に自分のような存在がいて、勇気を持ってそのようなお化けの絵を画いたのだといたく興奮します。

過去の偉人たちに自分の境遇を重ね合わせて希望を抱いたのはないでしょうか?

しかし、結果として葉蔵は堕落し、画けたのは日銭を稼ぐポンチ画のみでした。

 

もうひとつはヨシ子との結婚。

人間の顔をした魑魅魍魎たちの世界に嫌気がさした葉蔵も、ヨシ子の純真さ、処女性に打たれて電撃的に一緒になることを決めます。

薄暗い店の中に座って微笑しているヨシちゃんの白い顔、ああ、よごれを知らぬヴァジニティは尊いものだ、自分は今ままで、じぶんよりも若い処女と寝たことがない、結婚しよう、どんな大きな悲哀がそのためにあとにやって来てもよい、荒っぽいほどの大きな歓楽を、生涯にいちどでいい、処女性の美しさとは、それは馬鹿な詩人の甘い感傷の幻に過ぎぬと思っていたけれども、やはりこの世の中に生きてあるものだ、結婚して春になったら二人で自転車で青葉の滝を見に行こう、と、その場で決意し、所謂「一本勝負」で、その花を盗むのにためらう事をしませんでした。

投資や賭博で負け続けた人間が、その負けを取り返すためにより大きく賭けてさらに負けて泥沼にハマっていくよくある場面。

葉蔵はヨシ子の純真さに自分の人生のコインを全部ベットしたのかもしれません。

そんなヨシ子がその純真さゆえに犯されてしまったということは、葉蔵にとって手の内にあった希望が全て潰えてしまったことを意味していて、あとは転がり落ちていくしか他なかったのでしょう。

 

人間が一番痛苦を感じるのは、暗闇の中に射した一条の光を頼みに歩いた先に、断崖絶壁のような深い絶望をかんじることなのかもしれません。

もし、悪魔がいるとしても、その悪魔は決して邪悪な顔をして近づいては来ないように思います。

天使のごとく優しい顔をして近づいてきて、そうやって人間を篭絡し堕落せしめておいて、最後に奈落の底に突き落としてより一層深い絶望を味あわせるのかもしれません。

 

葉蔵が堕ちた地獄も、なまじかヨシ子の純真さに希望を感じたためより深く苛烈なものとなりました。

希望を、光を求めなければこれほどの深い闇を彷徨うこともなかったはずなのに。

華々しく散り死ぬことも能わず、生き恥を晒して、自らの人間性を尊厳をいたく喪ってしまいます。

廃人。

彼が最後にたどり着いた地平がそれでした。

 

 

 

5、終わりに

 

太宰治という作家を思い浮かべると、ペルソナ(仮面)という言葉がいつも浮かんでくる。

どこまでが計算で、どこまでが文学的表現で、どこまでがフィクションで、どこまでが本心なのか?

その境界がいつもぼやけてくるし、どこか彼の掌の上で転がされているような落ち着かない感じがあります。

 

自分の内面を曝け出して芸術に昇華していくという手法は絵画にも音楽にもあって、それは自分の魂の一部を悪魔に食わせ続けるような危険が伴う行為だと思います。

しかし、そんなギリギリのところに踏み込んでいくからこそ、作品は魔性を帯びて妖しい魅力で受け手を魅了するのだと思います。

 

太宰治にとって『人間失格』はそのような魔性を孕んだ作品だったのでしょうか?

彼が抱えていた絶望とは何だったのでしょうか?

ただただ、太宰(葉蔵)の発することのなかった切実な魂の希求が叫びが聴こえてくるような気がしてならないのです。

 

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