1、作品の概要
『ひとりでカラカサさしてゆく』は、江國香織の長編小説。
『小説新潮』2020年4月号~2021年7月号に連載された。
単行本で232ページ。
“Friendship”(C)Marie Gudme Leth, Designmuseum Denmarkの装画。
自死した3人の老人と、その遺族やかかわった人たちの視点で綴られた。
2、あらすじ
大晦日の夜に、3人の老人がホテルで猟銃自殺をするという衝撃的な事件が起こる。
警察に呼び出された遺族や知人たち。
嘆き悲しむもの、首をかしげるもの、故人との記憶に思いを馳せるもの・・・。
彼らはなぜ自死を選んだのか?
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
『ひとりでカラカサさしてゆく』は、江國香織の作品では珍しく猟銃での自死という衝撃的な事件を扱ったもので、以前から気になっていました。
ポップな装画と、タイトルとのギャップにも興をそそられました。
『犬とハモニカ』『去年の雪』のように多くの視点で描かれた物語で、自死を遂げた3人の老人の人生と、縁深き人々との繋がりを興味深く読みました。
4、感想
知佐子と、完爾、勉の3人の老人。
60年という長い時間、友人として交流し続けていた3人の男女。
美術系の雑誌の出版社で編集者として働いていた3人ともあって、センスが良くて人間的にもはっきりと自分の生き方を持っている印象。
それぞれにとても魅力的な人たち。
勉は家族を持っていませんが友人も多く、知佐子も完爾も家族がいて、自死するような理由があるようには思えない。
完爾は、がんを患っていて先が長くなかった。
抗がん剤治療を始める前の(医師に言わせると)絶妙なタイミングで自死を図ったのは、自分の足で動いて自分の意志で終わりを決めたいという意識のあらわれのように思いました。
勉は、経済的な困窮もあったのでしょうが、もう十分生きたという充足感もあったように思いますし、知佐子も良いこともそうでないこともたくさん経験して思い残すことはなにもなかったのでしょう。
「ほしいものも、会いたい人も、ここにはもうなんにもないのー」そしてひっそりとしめやかに心に積もるゆるやかな絶望。
すこしずつ自分が生きている世界から大事だったものが失われて、自分の中からもかつてあった願いや望みが失われていく・・・。
音もなくやさしく真夜中のまちに降り積もる綿雪のように。
3人の心に諦観がが降り積もっていったように感じました。
自死というのは褒められた手段ではないですし、残されたひとたちの心に残された衝撃を考えるといたたまれませんが、最後まで自分らしく生きて終わりも自分らしく決める。
そして、たくさんの思い出を共有した仲間たしと一緒に逝けるというのは、稀有なことではなかったのでしょうか。
残された家族の反応はさまざまですが、家族であったとしても、お互いの内面を完全に理解することは難しいし、家族に見せているものとは違った別の顔を持っているのが当然なのかもしれません。
僕自身、父の同僚や友人が語る父の姿に息子としての自分が知らなかった一面を見たり、母親に母、妻としての姿としてではなくひとりの人間としての人生を垣間見たりして、家族という役割を離れた時の個人の姿というのを強く感じたことがありました。
家族にはこうあるべきというようなモデルもあるように思いますし、本来の自分が持っている一面で見せられないようなものも出てくるのではないかと思います。
平野啓一郎が提唱する分人主義のようですね。
関わる相手やコミュニティの数だけ、違った自分の姿が増えていくという考え方。
家族といる時の分人と、外のコミュニティでの分人は全く違ったものであるのでしょう。
江國香織が『犬とハモニカ』『去年の雪』などで用いた多くの人間の視点で、タペストリーのようにひとつの物語を描く手法。
3人の老人の自死への反応は様々で、あのひとらしいと感じるもの、ただただ嘆き悲しむもの、憤りを感じるものたちが描かれました。
そして、それぞれの人生に故人がどんな影響を与えていたのか、また現在進行形でどんな形で変化をもたらしているのかを大きなキャンバスで描いているように感じました。
完爾の孫の葉月が、知佐子の娘の朗子、孫の踏子と交流する場面もそれぞれの想いが交錯していくようで興味深かったですね。
『ひとりでカラカサさしてゆく』というタイトルは、凛としてしゃんと背筋を伸ばして、でもどこか自然体で穏やかに唐傘を差しながら歩いていく知佐子、完爾、勉の3人の姿を思い起こさせるものでした。
複雑で繊細な心理描写が巧みな江國香織ですが、多くの人間の視点からそれぞれの人生を俯瞰するような物語が近作では描かれているように思います。
『抱擁あるいはライスには塩を』で表現したような受け継がれていく血脈。
今作では、それに加えて死者の思い出と共に生を歩んでいくような、そんな大切な誰かの死との向き合い方が描かれていたように思います。
江國香織といえば、恋愛小説家の印象が強くて、透明な文体と称されて、ちょっと通常の世間から外れたようなアウトロー的な存在の登場人物が描かれていて初期の作品なんかもとても好きなのですが、ここ10数年の作品の変化も好ましく思いますし、より総合小説的な、数多くの人々の人生を俯瞰で捉えるような作品もとても好きです。
歳を経て、懇意にしていた人たちの死に触れる機会も増えてこういった
作品を書く下地ができていったように思います。
無粋かもしれませんが、篠田完爾に自身の父親の演芸評論家・エッセイスト・俳人である江國滋(1997年に食道がんで没)を投影していたように思いますし、朗子には幼い頃に父の客人と親しんだ自身の記憶を投影していたようにも感じました。
江國香織はあまり自身の内面を作品に投影するようなタイプの作家ではないと思いますが、もしかしたら今後私的な体験などを作品に盛り込んだ作品も増えていくのかもしれないと予感を覚えるような作品でした。
5、終わりに
江國香織の作品を読み始めて26年が経ちました。
途中、あまり読書自体していなかった時期もありますし、ずっと熱烈な読者だったとは言えないのですが、好きな作家の1人ですし、20代前半の多感な時期に『きらきらひかる』『落下する夕方』『神様のボート』などの初期作品に衝撃を受けた時の感覚を忘れられません。
たいぶ失礼ですが、旧友のような作家さんだと思っています。
全部を読んだわけではないですが、わりとだいたい読んでいて『東京タワー』『スィートリトルライズ』以降あたり『犬とハモニカ』ぐらいから転機が訪れているように思いますね。
たくさんのひとたちの人生、半生を描くような大きな時間の流れ、『去年の雪』では時代も飛び越えて人々の営みを描きました。
彼女の作品がこれからどう変化して、どこに辿り着こうとしているのか?
近々、集大成的な作品でここ十数年の試みの結実がみられるのではないかという期待があります。
まだまだ見たい景色がある。
見届けたい多くの文学、映画、音楽作品の行く末がある。
子どもたちの未来も見たい。
もっともっとまだ、ここ(現世)にはほしいものも、みたいものも、かなえたい欲求もたくさんある。
これがたぶん生きることなのかもしれないと、この作品を読み終えて感じました。
すべて見てしまって、もう何も欲しくないのなら、もしかしたらそこは生の終着のひとつでありえるのかもしれない。
そんなふうに思えるのです。
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