1、作品の概要
『シュガータイム』は小川洋子の初の長編小説。
『妊娠カレンダー』で芥川賞受賞後、1991年に刊行された。
文庫版で215ページ。
砂糖菓子みたいにもろく甘い、青春の最後の日々を描いた。
2、あらすじ
大学生のかおるは、唐突に訪れた異常な食欲に戸惑いながら、その日食べたものをひたすらに記録する奇妙な日記を書き始めていた。
バイト先のホテルで余った大量のアイスクリームロイヤルをみんなで食べたこと、8歳から身長が伸びない病気にかかってしまった小さな弟の航平が隣に引っ越してきたこと、この二つが異常な食欲のきっかけにおそらくなった、と彼女は考えていた。
親友の真由子たちと大学野球を観戦に行っていた時、かおるのボーイフレンドの吉田は現れずバイクで交通事故に巻き込まれていた。
吉田のバイクの後ろに乗っていた女性。
多くを語らない吉田は、かおると距離を取るようになる。
砂糖菓子みたいにもろくていとおしいシュガータイム。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
『シュガータイム』は、以前からXのTLで見かけたりしていて、そのうち読みたいなと思っていました。
まぁ、小川洋子の作品は全部読むつもりではあるのですが。
最近は初期作品を読んでみていますが、最近の成熟して完成された小説の世界観と違ってまた良いですね。
どこかほろ苦い青春を感じさせながら、普通とは何かを突き付けるような物語だったかと思います。
4、感想(ネタバレあり)
①普通とは何かの問いかけ
先日、小川洋子のデビュー作『揚羽蝶が壊れる時』を収めた短編集『完璧な病室』を読んで感じましたが、小川洋子の初期作品で繰り返し描かれているのは「普通とは何か?」ということだと思います。
村田紗耶香の作品を読んでも感じますが、この社会で繰り返しアナウンスされている「普通」という概念への疑念と嫌悪。
そんな「普通」へのアンチテーゼとしての物語のようにも思います。
あまり良くない言葉でありますが、かおる、吉田、航平、ある女性たちはある種の不具者のように感じます。
魂の不具者たち。
でも、そうやって普通と違う何かを肉体的、精神的に持っていて当人が何も不便も苦痛も感じていないのだったら、どうでしょうか?
特に吉田とかおるが精神科に通うエピソードに強く顕れているように思います。
吉田が本当に性的に不能なのかどうかはわかりませんが、精神科医は吉田が不能と断じます。
そこには「愛し合っているカップルならSEXをするのが当たり前だ。そうしないのなら、男性が不能なのに違いない」という「普通」に準じた考えがあります。
「僕は君に、これだけのことしかしてあげられないよ」
それでも、お互いに不都合も不満も感じてなくて愛し合えたのだとしたら。
たとえ、性的に不能だったとしてもなんの問題があるのでしょうか?
「どうして?わたしたち何の不都合も不満も感じていないのよ」
心身に欠損を抱えながらも、胸を張って自分にとっての普通を生きる。
そういった路傍の草花のようなしなやかな強さ、健やかさがひとつこの物語の重要なテーマとして描かれているように思いました。
②魂の片割れと巡り合うこと
かおるのボーイフレンドの吉田が、彼女の前から去ってしまった理由。
それは「お互いに含まれあってる」と感じるような決定的な存在である人と巡り合ってしまったからでした。
お互いにそう感じてしまうような決定的な存在。
どことなく村上春樹の作品で繰り返し描かれているような、「直子的存在の女性」との関係性を想起させられました。
対話療法などという不思議な治療のもと、古びたビルの一室で飲み物もBGMもなくただ二人でだけで向かい合っているうちに、僕たちは気づいたのです。含まれあっている、と。僕は彼女に、彼女は僕に。
もともと1人だった人間の魂の片割れに出会ったような決定的な存在。
実際にスピリチュアルな世界で「ツインソウル」という言葉がありますが、吉田とその彼女はまさにこの関係性に近いものだったのかもしれませんね。
吉田としては、かおるにこの感覚を言葉で説明するのは難しかったのかもしれませんが、手紙で別れを告げるのはとても残酷なやりかただったようにも思います。
ツインソウルとは?特徴・見分け方・出会いと別れ・統合・覚醒・ランナーチェイサーの解説など (lani.co.jp)
ツインソウルに巡り会う前に偽ツインソウルとの出会い。
吉田はかおるにとっての偽ツインソウルで、深く傷つけられたあとに本物のツインソウルに出会うという法則からいうと、(もうすでに出会っているけど近くするという意味で)航平がかおるにとってのツインソウルなのではないかと思います。
2人での食事会、航平との時間に癒されて、自分の気持ちを整理することができたかおる。
ただどうしようもなく、航平に触れていたいだけだった。お互いが含まれ合っているかのように、彼の無垢な温もりを心の奥で感じたいだけだった。
ここに含まれ合っているという文章が出てきたことがなにかを示唆しているように感じました。
小川洋子がツインソウルの概念を念頭にこの物語を書いたのかどうかはわかりませんが、吉田と彼女、かおると航平は恋愛関係を超えてお互いに静かな安寧を覚えるような特別な存在だったように思います。
③モラトリアムの終わり、最後の残光
どんなことがあってもこれだけは、物語に残しておきたいと願うような何かを、誰でも一つくらいは持っている。それはあまりに奥深いものである場合が多いので、書き手は臆病になり、いざとなるとどこから手をつけていいのか分からなくなる。
小川洋子のあとがきの一文ですが、とても印象的です。
彼女にとって「物語に残しておきたいと願うような何か」とは一体何だったのでしょうか?
それは、タイトルにヒントが隠されているように思います。
シュガータイム。
最初は単純にオヤツの時間っていう意味かと思いましたがたぶん違いますよね(笑)
真由子がかおるに語る言葉にシュガータイムという言葉の意味が表現されています。
「わたしたちのシュガータイムにも、終わりがあるっていうことね」
真由子が言った。
「砂糖菓子みたいにもろいから余計にいとおしくて、でも独り占めにしすぎると胸が苦しくなるの。わたしたちが一緒に過ごした時間って、そういう種類のものじゃないかなあ」
小川洋子がこの作品で、初めての長編小説で描きたかったのは、そんな大人になる前の甘苦く、かけがえのない時間だったのではないでしょうか。
なんとなく、かおると真由子って、『風の歌を聴け』のぼくと鼠を想起させる部分があって。
いや全然違う感じなんですけど、もう帰ってこない最後のモラトリアム(大人になるまでの猶予期間)を共有している点では共通しているんですよね。
僕にも、そんなモラトリアムを共有していたかけがえのない友人がいましたし、そんなシュガータイムは、まさに砂糖菓子みたいにもろくていとおしい時間でした。
そして、もう絶対に戻ってこないかけがえのない時間でもあります。
かおるが、「最後の春が始まる」と自覚なく思ったのはそういった子供でいられる最後の猶予期間の終わりを感じたからなのかもしれませんね。
5、終わりに
異世界での死の香りに満ちたぶっ飛んだ世界観や、独特のエロティックさを感じさせるような最近の完成された作品に比して、未成熟な物足りなさをこの作品に感じる方もいるかもしれませんが、僕は初期のイノセントな衝動や、相反するアナーキーさを感じ取れてとても楽しく読めました。
ワインにたとえると、完成された世界観を持った近作が20~30年と熟してレンガ色に変化して複雑な味わいと重みを湛えたボルドーワインなら、『シュガータイム』は5年も経っていないフレッシュなブルゴーニュのピノノワールのワインのようでした。
薄紅色でフレッシュな香りの野イチゴのような物語。
やがて深みを備えて重厚さを持つような予感を、その果実味の奥に湛えているようなそんな物語だったように、僕には思えました。
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