1、作品の概要
2020年4月に刊行した町田そのこ初めての長編小説。
書き下ろし。
2021年本屋大賞ノミネート、『王様のブランチ』本屋大賞1位、読者メーターOF THE YEAR2020 1位、ダ・ヴィンチ BOOK OF THE YEAR 4位に輝いた作品。
虐待という重いテーマを扱いながら、心に傷を持った者同士の深く優しい触れ合いを描いた物語。
2、あらすじ
都会の街から1人で大分県の海辺の町にやってきたキナコ。
彼女は、過去に自分を虐待の地獄から救い出してくれたアンさんの声なき想いを感じることができずに失ってしまい、愛してくれた主税を粗暴な男へと豹変させてしまったとという重い過去をひきずっていた。
心にも体にも重い傷を抱えて逃げるように隠れるように暮らしていたキナコは、自分と同じように親から虐待を受けていた愛(いとし)と出会い、彼の声なき声を聴くようになる。
キナコを慕う村の青年・村中や、親友の美晴と共に愛を虐待から救い出すために奔走するキナコ。
愛や、周りの人達の優しさに触れるうちに過去に縛られて固く閉ざされていたキナコの心に次第に温かいものが満ちていく。
誰にも届かない52ヘルツの叫びを上げ続けるクジラ達の物語・・・。
3、この作品に対する思い入れ
ツィッターで仲良くしていただいている方が『52ヘルツのクジラたち』を紹介している文章を読んで、とても読みたくなり即ネットで注文しました。
ネットショップで売り切れで届くまでには少しタイムラグがありましたが、物語の世界に強く引き込まれてほぼ一日で読んでしまいました。
僕にとって特別な物語がまたひとつできたことがすごく嬉しいし、息子達にも読ませたいです。
とても辛い背景を持った人達の物語ですが、絶望の淵にいても何度でもやり直して生き直すことができるってことを改めて感じさせてくれました。
4、感想・書評
①アンさんとキナコの運命の出会い
物語の冒頭から繰り返しキナコが想っている「アンさん」ですが、とても大事だった人で失ってしまった喪失感が繰り返し描かれています。
親から虐待を受け続けていた主人公のキナコ、彼女を助け出してかけがえのない存在だったアンさん、親から虐待されて声まで失ってしまった52(愛)の3人がこの物語の核となる登場人物で、誰にも届かない声で叫び続ける52ヘルツのクジラたちのような存在だったのだと思います。
アンさんはキナコにとって特別な存在で、まるでヒーローのようにキナコを地獄から救い出してくれました。
キナコは両親から酷い虐待を受けていて、母親からは何をしても否定されて罵られ、ALSの難病になった義理の父親の介護を強要されて成人してからも搾取され続ける毎日でしたが、偶然街中で出会ったアンさんと高校時代の親友・美晴に救われます。
アンさんは、半ば強引にキナコを家から連れ出し、仕事や住居に関することまで支援してキナコを自立させます。
何故アンさんは、そこまでキナコの面倒をみて手助けをしたのでしょうか?
ただの好意や親切心を超えた力強い動機付けを感じます。
それはもしかしたらアンさん自身の心の中にも屈折した想いがあり、キナコと同じように声なき声を上げ続ける存在だったからなのかもしれません。
アンさんは、キナコと初めて出会った時に直感的にキナコの声なき叫び、誰にも届くことのない52ヘルツの声を聴いたのでしょうか・
緩やかな連帯感、シンパシー、そして魂の番とも言うべき運命的な出会い。
お互いが不完全で、不具であるからこそ歪に寄り添え合えた関係。
しかし、アンさんがもう一歩踏み出して、キナコとしっかりと向き合うことができない理由がありました。
微妙なバランスの上で成り立っていたキナコ、アンさん、美晴の関係も変化していきやがてキナコは主税という男性と交際するようになります。
ここからアンさんは、キナコにとって不穏な存在になっていきます。
周りとの関係を遮断し、あたかも嫉妬にかられた粘着質の男のように見えていたアンさんの真意を知った時には全てが手遅れになった後でした。
物語を全て読み終わった後で、アンさんがどうしてこういった行動がを取っていたかの理由がわかってもアンさんの感情の動きや行動はとてもミステリアスで難解です。
アンさん自身の感情表出や、自身の内面を吐露するような場面は最後の手紙の場面以外にほとんどなく、多くの謎を残して去ってしまいます。
キナコが全てを理解した時は手遅れで、アンさんの手で始まった彼女の第2の人生はアンさんとの別れで終わりを告げます。
キナコはアンさんとのすれ違いを。
その魂の叫びに、自分を求め続ける哀切に満ちたその声を聴けなかった到ならさに後悔の念を抱き続けることになります。
アンさんの真意はずっとベールに覆われていますが、僕はもしかしたらキナコに対して呪いをかけていったのではないかとも思っています。
自らが消えることで相手の心に消えることのない情念の楔を打ち込む。
女性的な情念を感じさせる呪い。
これは、僕の拡大解釈かもしれませんが。
相手の中で永遠に生き続けて、想われ続けるためには届かない想い、献身、消失という要素が必要なのかもしれません。
アンさんは、キナコの心にずっと消えない自分の傷跡を残したいと無意識にでも願ったのではないでしょうか?
真意はわかりませんが、アンさんの想いは純愛呼ぶにふさわしい無辜の愛だったのでしょう。
なんの見返りも求めずにただ相手の幸せを願い続けるような・・・。
「ねえ、アンさん。あのね・・・あの、わたしのこと、好き?」
男と女として、とはさすがに言えない。あんさんは少しだけ沈黙して『大事だよ』と言った。
『キナコのしあわせをずっと祈るくらいにはね』
究極の純愛について昔何かの本で読んだのだけれど、「どれだけ想っても絶対に叶わないこと」ものだと記されていました。
アンさんは、運命的な愛に生きて純愛に殉じたのでしょうか?
キナコの心に軛を残して。
②キナコの第3の人生を包む温かさ
そのようなアンさんとの離別、主税との別れを通して、キナコは心にも体にも深い深い傷を負ってしまいます。
ただでさえ、虐待され続けてマイナスからのスタートだった人生から再起しての第2の人生でさらに傷だらけになってしまう・・・。
神様、あんまりやで!!
逃げるようにおばあちゃんが住んでいた大分の家に引っ越してくるのがこの物語の冒頭部分ですが、まるで余生を送るかのような隠遁生活を望むキナコの周囲は割とカラフルで温かい人達が多く登場します。
田舎ならではの不躾さと、温かさ。
それに密かに僕はこの物語のキーだと思っている、美味しい食べ物たち。
キナコがアンさんと美晴と初めて3人で居酒屋に行って、アンさんに食べさせてもらった茶碗蒸し。
キナコと愛が縁側で一緒に食べたカレー。
小倉では名物の鉄鍋餃子に焼き鳥屋に豚骨ラーメンとおでん(笑)いや、たべすぎやろ!!
その他の重要な場面でも飲み食いする描写が多く、食べたり飲んだりすることが好きな僕は読んでて楽しかったです。
『52ヘルツのクジラたち』は虐待、自死、LGBTなど重いテーマをはらんだ作品ですが、ポップな表紙と相まって重すぎず、最終的に光を感じさせる作品になっているのは皆で楽しく飲食している場面が多いからなのかなとも思います。
僕は、やっぱり食べることは生きることだと思いますし、悲しいことがあってもお腹は減る。
片意地張らないで、みんなで美味しくゴハンを食べられれば元気も出て、体も温まるし幸せなんだと思います。
町田そのこさんが、作中に飲食の場面を多く描いている意図は僕の思う通りかわかりませんが、この作品に感じる温かい光は美味しくゴハンを食べている場面が多いからなような気がします。
偏見かもしれませんが、やはり女性の作家さんのほうが食事の場面(またはゴハンを作る場面)を多く描いていることが多いような気がしますし、そのことで優しくて温かな文章を書かれているようにも思います。
食べることと、生きていくこと、日々の生活を丁寧に送ることの大事さを理解して、表現しているのでしょうか。
また、キナコが住む家を修理に来た村中や、キナコを追いかけてきた美晴などたくさんの温かい人達にも励まされてキナコは過去の傷から立ち上がっていきます。
他者との関わりを排除しようとするキナコの生活にたくさんの人達がドカドカと土足で上がってきます。
そんなふうに他者を拒絶し続けて生きていくのは難しいし、繋がりの中から生まれてくるものだったり、大きな力を得たりすることができるのだと思います。
愛の為に奔走するキナコはそのことを身に染みて教えられたのではないでしょうか?
③愛(いとし)とキナコ
自分を助け出して、導いてくれたアンさんの声なき叫びを聴けずに永遠に損なってしまった、と感じるキナコ。
かつての自分のように親から虐待されている愛と出会って、アンさんがかつてしてくれたように愛を暗闇から救い出したいとキナコは願うようになります。
ちょっと代替行為だとか、共依存みたいなワードも出てきそうな状況ですが、愛もまた声なき叫びを上げ続ける52ヘルツのクジラで、実際に彼は言葉さえも失っていたのでした。
母親に「ムシ」と呼ばれて育てられている愛。
その彼に昔の自分のような面影を感じてシンパシーを感じるキナコ。
キナコと美晴が愛の為に奔走する物語は楽しかったけれど、やはり同時に危うさも感じます。
他人が他人を支援する。
それも長い期間永続的に支援していくことはとても難しいことだと思います。
それが好意だったとしても、気持ちは変わっていくし、そこに好意以外の何かの気持ちが含まれていくと事態はより複雑になっていきます。
不完全な人間同士が寄り添うなら尚更そうでしょう。
誰か他人と一緒に居続けて、運命を共にするというのはそれほど過酷で、ある意味においては異常な行為なのだと思います。
話は逸れますが、そう考えると『結婚』という概念がどれほど歪なのかがわかるような気がします。
ある意味、上手くいかないのが自然なような気もしてきますね。
もしそこで曲りなりのも添い遂げられたとしなのなら、そこには一つの『物語』の力があったからな気がします。
物語は人と人とを結びつけますが、それだけでは不完全だし、ましてや愛とキナコは不完全な者同士。
昌子さんが2年間の期間をおいて考えるとしたのは正しい判断だったのでしょう。
ラスト付近のアンさんらしき存在が、愛の危機をキナコに伝える場面。
キナコは初めて愛の声なき声を聞きます。
『たすけて』
たとえ直接的に言葉で伝えられなくても。
物理的に離れていても。
魂は叫びを上げ続けて声なき声を届けようと求めてもがいているのでしょう。
「愛」
「キナコ!!キナコ!!」
愛が駆け寄ってくる。勢いよく抱きついてくる身体を全身で受け止めた。確かな強さとぬくもりが腕の中にある。強く抱きしめ返して、わたしも声を上げて泣いた。
わたしはまた、運命の出会いをした。一度目は声を聴いてもらい、二度目は声を聴くのだ。このふたつの出会いを、出会いから受けた喜びを、今度こそ忘れてはならない。
運命と奇跡が交錯して、2つの魂が解き放たれていく。
どれだけ損なわれて、魂が欠損するほどの痛みと傷を受けたとしてもきっとやり直せる。
どれだけ不条理な痛みに苦しめられても、何度でも立ち上がれる。
やり直して前を向ける。
僕は、この『52ヘルツのクジラたち』を『生き直しの物語』だと思いました。
生きていれば、不条理に酷い傷を負うこともあるし、もしかしたら生まれたその瞬間から立ち上がることができないほどの痛みや欠損抱えていることもあるかもしれない。
でも、人生ってそうやって損なわれ続けるものなのでしょうか?
希望は?
光は?
救いは?
絶望の淵にいても、やり直せる。
自分だけじゃなくて、周りの誰かの力も借りて。
そういった運命と命の不思議。
そういったことを、この物語を読んで強く感じました。
5、終わりに
とてもよくできな物語だったし、辛いテーマを抱えながら明るさと強さを感じるような不思議な作品でした。
これが町田そのこさんの作家性なのでしょうか?
そして、物語が物語としてあるべき必然性を強く感じた作品でした。
何かを抱えた人間たちが寄り添いながら何かをくぐり抜けていく。
そこにはたくさんの想いがあり、触れ合いがある。
魂の交歓というべき深い交わり。
そのメッセージは受け取る側ひとりひとりにとって形を変えていくようなものなのかもしれないけど、そんな春の霞みたいな道しるべを辿って僕は今日も生きていきたいと思う。
力強く明確なイデオロギーでなくてもいい。
か細くとどくある種の生きにくさを抱えたクジラ達の叫びと物語。
そんな不確かさが僕は好きです。