1、作品の概要
『愛の渇き』は三島由紀夫4作目の長編小説。
1950年に新潮社より刊行された。
書き下ろし。
文庫版で231ページ。
1967年に浅丘ルリ子主演で映画化された。
叔母から聞いた婚家の農園の話を下敷きに書かれた。
夫をなくした悦子が、舅に身を任せながらも、若い園丁の三郎に激しく恋焦がれていく。
2、あらすじ
愛人を作りほとんど家に寄り付かなかった夫・良輔に苦しめられていた悦子。
彼が病気で亡くなった後、舅の弥吉の農園兼別荘に身を寄せることになり、身体を許すことになる。
屋敷には長男・謙輔夫婦、三男・祐輔の妻・浅子と2人の子供、園丁の三郎、女中の美代が住んでいた。
奇妙な関係性の中、暮らし続ける杉本家の人々。
やがて悦子の三郎への熱烈な愛と、三郎と美代との姦通により、一族の歯車は少しずつ狂っていく・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
最近、なんだか近代文学ブームで三島由紀夫、太宰治、川端康成、夏目漱石らの作品を好んで読んでいます。
中でも三島の文章の美しさ、言葉選びの巧みさは群を抜いているように思います。
ため息が出ますね。
『愛の渇き』は、以前買って未読だった作品で、これを機に読んでみました。
官能的な作品かと思いきや、悦子の苦悩と幸福論にスポットが当てられた演劇作品のような物語です。
4、感想(ネタバレあり)
『愛の渇き』は三島由紀夫にとって4作目の長編小説で、『仮面の告白』『純白の夜』のあと、『青の時代』『禁色』の前に書かれた作品になります。
この中で読んだことがあるのは『仮面の告白』しかないのですが、近々『禁色』も読んでみたいですね。
初期作品ではありますが、物語の起承転結がはっきりしていて、小説としての完成度はとても高いと思います。
三島って『金閣寺』『仮面の告白』みたいに硬派で耽美的な作品のイメージが強いのですが、エンタメというと言い過ぎかもしれませんが、やや世俗的なわかりやすい作品も多く書いています。
『愛の渇き』もそのエンタメ寄り作品で、『美徳のよろめき』と少しイメージが重なるようにも思いましたが、文体は少し重々しい部分もあり、悦子の内面の描写、偏った価値観が仔細に描かれているという面で、『愛の渇き』は硬質な要素も持った作品であるように感じました。
三島由紀夫という作家は、作品によって文体を変えられるというイメージがあります。
文章、文体への理解度は、僕みたいなへっぽこ読書家は低いのですが、彼の作品を読んでいくにつけその幅にに驚きます。
硬いか柔らかいかだけの二元論で語るのはいささか乱暴かもしれませんが、ラーメン屋の麺の固さで喩えると、『金閣寺』がバリカタだったとすると、『美徳のよろめき』は柔らかめといったところでしょうか。
これでけの振れ幅で多くの作品を描けるというのはすごいことだと思いますし、言葉、文章、文体に対しての深い理解がないと為せないことだと思います。
『愛の渇き』の文体は「普通」といったところでしょうか。
硬くもなく、柔らかくもなく。
通常の文章は読みやすいのですが、心理描写になると途端に込み入ってくるような印象もありました。
この文体はモーリヤックという作家の一時的な影響下で生まれた文体とのことでしたが、熱心な読書家とは言えないヒロ氏はモーリヤックはもちろん読んだことがなく、「ふーん」としか言えませんでした(;^ω^)
それと物語の舞台装置がどことなく古典演劇のような、ギリシア悲劇っぽい感じがあり、三島自身もフランス古典劇にならった人物の配置をしていると語っていたようです。
嫉妬の末に、悦子が三郎を鍬で殺す終末も、どことなく古典悲劇を彷彿とさせるような展開でした。
3人称で描かれていますが、登場人物の心の動き、思惑を仔細に描いており、広い屋敷と農園の中の、どこか世間から隔離された奇妙な人間関係のねじれが描写されています。
3世帯同居のような形でありながら悦子は弥吉にとって次男の嫁という歪な関係で、そこに長男の謙輔夫婦、三男の妻・浅子と子供たちに、園丁の三郎と女中の美代が同居しています。
家長であり絶対的な権力を持った弥吉ですが、悦子にはベタぼれで日記を覗き見するほどゾッコン状態。
浅ましいおじいちゃんですね(笑)
昔ほど強い権勢ははないものの、かつては会社の社長を務めたこともあるほどの人間ですので、家庭内では絶対的な存在です。
それなのに悦子に振り回されているのがなんとも滑稽だったりします。
そんな弥吉を揶揄しながらも、いい歳こいて自活できずに父親の世話になりっぱなしのダメ男の謙輔ですが、妻はそんな謙輔になぜか心酔しており、2人でなんやかんやと悦子に有難迷惑な助言をしたりと立ち回ります。
浅子たちの家族は、3男の祐輔がシベリア抑留されているため弥吉が呼び寄せましたが、そこまで物語の筋には関わってはきません。
そして、園丁の三郎に悦子が恋をするも、三郎は悦子の気持ちに気付かずに、女中の美代を孕ましてしまうというややこしくも奇妙な屋敷の人間関係。
現代では、こんな大勢で暮らすことは考えられませんが、当時ではままあったことなのでしょうか?
しかし、これほど奇怪な人間関係で暮らしている家は少なかったかと思いますね(;^ω^)
悦子は、弥吉の次男・良輔と結婚していましたが、その生活は幸福なものではなく、悦子の錯乱は結婚生活の荒廃によって深まっていったように思います。
良輔は、超女たらしで外で女を作ってほとんど家に寄り付かないクソ人間でした。
今だったら秒で離婚されますが、時代もあったのか、悦子の両親がすでに他界していて頼る人もいないという状況もあったのか、離婚もせずに何日も帰ってこない夫のために料理を作り続ける悦子。
しかも、わざわざ付き合っている女たちの写真を並べたり、自分の身体に触れさせなかったり、ちょいちょいDVしたりとか、もうこの良輔は最悪の夫ですね!!
昔の小説なんかで、こんなクソ夫の話を読んでいると、僕は自分がいい夫のような気がしてきていい気分になりますが、奥様からの評価はあまり高くないことをここに記しておきます。
そんなクソ夫の良輔が重い病(腸チフス)にかかってしまいます。
彼のことを愛し、嫉妬の炎を燃え盛らせていた悦子ですが、重い病にかかったことで自分のところに戻ってきて世話ができることに狂喜します。
ようやく自分も元に戻ってきた夫。
彼女の看護は異常な情熱を持って行われ、狂気を感じさせられるものでした。
私にはわかっていた。もしよみがえらせれば漂流物は忽ち私を捨てて、また海の潮流に運ばれて無限のかなたへ逃げ去ってゆくに相違ないことを。今度こそは二度と私の前に還って来ることはないかもしれないことを。
私の看護には、目的のない情熱があったが、誰がそれを知ろう。良人の臨終に流した私の涙が、私自身の日々をやきつくしたこの情熱との離別の涙だったと誰が知ろう・・・。
良輔が死ぬことで、嫉妬から解放される。
しかし、もし彼が治癒していたとしたら、こんなに親密な時間は継続されずに、彼はまた自分の前から去っていてしまう。
それなら、いっそこのまま・・・。
良輔のことを愛しているがために、彼への嫉妬と支配から逃れるために、彼の死を願う。
嫉妬する対象が失われてしまえば、これ以上苦しまなくていい。幸福でいられる。
短絡的かもしれませんが、唐突に思えた悦子の三郎の殺害も、この考え方から説明ができるかもしれません。
歪んだ方法ですが、良輔が死んで永遠に彼への嫉妬から解放されたことは、悦子にとって成功体験だったのかもしれないと思いました。
・・・ここでは生命は、是認されるためにだけ辛うじて存在しているので、もう小うるさい欲望は存在しない。ここでは幸福が支配している。つまり、幸福という腐敗のもっとも早い食物が、完全に喰べられない腐敗の状態で。
血便、吐瀉物の悪臭の中、死に向かっていく良人を前にして、自らも感染の可能性に曝されながら一心不乱に、彼の死を願いながら看護する悦子。
もはや味わうことも叶わぬ腐乱した幸福の中、彼女の精神は・・・。
悦子の逆説的幸福論。
自分は幸福でなくてはならないし、幸福であるはずだ、という観念が彼女を支配しているように思います。
戦国時代の名将の血を引く旧家で生まれ育ったからでしょうか?
それとも、良輔との結婚生活の破綻が、自らを幸福であることを強く義務付けるような思考に彼女を変革してしまったのでしょうか?
『それでも私は幸福だ。誰もそれを否定できはしない。第一、証拠がない』
自分は幸福であるはずで、証拠がないのだから、誰も否定できないだろう、という歪な考え方。
悦子の幸福論、三郎への強い情愛と嫉妬、三郎と美代との交接、弥吉の悦子への嫉妬・・・。
それらが重なり合って、坂道を転げるように運命が加速していき、やがて悲劇へと辿り着く。
三郎はめっちゃいい青年でね。
まだまだ少年の面影を残す無垢さと、健全で見事な肉体。
どことなく『潮騒』の主人公の青年を思わせるような。
調べたら、2人とも18歳みたいですね。
子供らしい質朴さと無邪気さ、しかし肉体は成熟し大人のようになっていく。
18歳とはそんな年齢ではないでしょうか。
三島由紀夫の性癖を垣間見たように思いますし、祭りの場面など三郎の肉体への執拗な描写と憧憬が描かれ、悦子がその肉体に爪を立て傷付けるところにも倒錯的な性愛を感じました。
『仮面の告白』でも描写されていましたが、美しい肉体への執着が描かれています。
三郎の精神は田舎者の男子らしくどこまでも素朴で、悦子の複雑に絡み合った情愛を感じ取ることができません。
いや、まあ無理もなからん。
愛することということすらわからず、ただ性的な欲求のままに美代と交わったというのも、18歳男子のリアルかもですね(笑)
しかし、そんな三郎と悦子のすれ違いも悲劇を生む大きな要因となっていきます。
悦子のロマネスクは、情愛と嫉妬は、18歳の青年にとって理解するのが難しい込み入ったものだったと思いますし、まさか自分にそんな感情が注がれているとは夢にも思わなかったのでしょうね。
かわいそうな三郎。
夜中に狂乱劇を巻き起こし、鍬で三郎を殺して血まみれになりながらもすやすやと眠りにつく悦子は、もはや精神の怪物へと相成ったのでしょうか。
5、終わりに
・・・しかし何事もない。
という、終わり方もなんだか好きです。
そっけない物語の閉じ方を批判する評論家も多いようですが、語りたいことを語り終えてさっさと店じまいする感じが僕にはおもしろかったです。
スープがなくなったら閉店するラーメン屋みたいな。
って、今回ラーメンの譬えが多いな(笑)
次は『禁色』を読んでみたいですね。
長いけど、今なら読了できる気がします。
やっぱ、三島ええなぁ~。
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