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【本】三島由紀夫『金閣寺』~幼少期から繰り返された美との断絶、そして滅びによる同化~

1、作品の概要

 

金閣寺』は三島由紀夫の長編小説。

1956年に刊行された。

三島由紀夫の代表作で、世界的にも評価が高い作品。

新潮1956年1月~10月号に連載された。

文庫本で257ページ。

第8回読売文学賞を受賞。

2020年時点で361万部を記録している。

1950年に実際にあった「金閣寺放火事件」をモデルに描かれた作品。

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2、あらすじ

 

京都の北の地、僧侶の息子として生まれた「私」は、父親から繰り返し金閣寺の美しさを聞かされて育った。

身体も弱く、生まれつき吃音があった「私」は極度の引っ込み思案の持ち主として成長し、ほのかに想いを寄せていた有為子にも相手にされなかった。

病弱だった父の勧めで、「私」はやがて父の知人が住職を勤める金閣寺で徒弟として修行するようになる。

同じく徒弟として住み込みで修行していた純粋で明るい少年・鶴川のお陰で「私」も日々を穏やかに送っていた。

真面目な「私」は父の死後も住職から目をかけられて、大学に進学し、後継者と目されるまでに成長していく。

しかし、大学で内反足の障害を持つ柏木と出会い、彼のゆがんだ思想に触れるうちに堕落していく。

鶴川の死、女性を愛し抱こうとする時に金閣が目の前に立ち塞がることに絶望を感じた「私」は、やがてある計画を思い描くようになる・・・。

 

 

 

3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ

 

20歳ぐらいの時に読んだ三島由紀夫の代表作。

27年ぶりに再読して観ました。

粗野な若者であった当時、美について語られる文学作品はとても新鮮で、観念的で読み取るのが難しい作品であったのですが、とても刺激を受けながら読み終えたのを覚えています。

「美は・・・美的なものはもう僕にとって怨敵なんだ」という「私」の言葉がとても衝撃的だったのを覚えています。

僕が「エロは・・・エロ的なものは僕にとって怨敵なんだ」っていうぐらいのインパクトだったかと思います。

 

少し前から、『金閣寺』を再読してみたいという思いはありましたが、何かしら覚悟というか、自分の中でタイミングが合うのを待っていました。

ちなみにこちらの年季が入った本は、実家の親父の蔵書からくすねたものです。

昭和53年刊行って、46年前ですね。

まだヒロ氏もよちよち歩きの1歳の頃でした。

左上に押された新潮の印鑑にも時代を感じますね~。

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4、感想(ネタバレあり)

①作品の背景

1950年7月2日に実際にあった「金閣寺放火事件」をもとに『金閣寺』は執筆されました。

この時に金閣寺は完全に消失していて、現在建っている金閣寺は1955年に再建された金閣寺Ⅱ世みたいですね。

いや、知らなんだ(;^ω^)

 

金閣寺放火事件」の犯人である林養賢。

三島由紀夫の『金閣寺』は、家庭環境、吃音を持っているということ、鹿苑寺の見習い僧侶であったところなど、実在の事件の設定をほぼそのまま使っています。

いや、パクリやん!!と思われたそこのアナタ。

昨今、小説家は現実にあった事柄をもとに物語を描いたりするものですし、この「金閣寺放火事件」は当時さまざまな話題となり、作家、批評家などが、なぜ林がこのような行為に至ったのかを論じていたようです。

 

様々な意見が飛び交った中で、三島由紀夫が『金閣寺』の中で事件への動機を語ったのは「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」というものでした。

林の中にあったであろう、屈折した想い、苦しみ。

それを三島由紀夫が自らの物語へと濾すことで、『金閣寺』という未曾有の文学作品が立ち上がったのだと思います。

 

②変遷していく金閣寺との関係性

「私」がいかにして金閣寺を焼くに至ったか?

三島は、吃音があるためコンプレックスを抱き、他者とうまく関われずに、心に暗いものを抱え込んでしまった「私」が、美しいものの象徴で憧れだった金閣寺に対してどのような想いを抱いていたのかを丹念に描写しています。

*小説の表現上、「私」が吃音があることでコンプレックスを抱いたと表現していますが、吃音があることで誰もがそんなコンプレックスを抱いて、暗い想いを抱えるというわけではないと思いますし、きちんと向き合って前向きに生きている方もいると僕は思います。

 

父親の影響で、まだ見ぬ金閣寺の美しさに胸をときめかせていた「私」は、実際の金閣寺に初めて対面し、イメージの金閣寺と実際の金閣寺にギャップを感じますが、徐々にその美しさの虜になっていきます。

そして、父親の死を契機に父親と交流があった鹿苑寺の住職のもとへ、徒弟として住み込むようになる。

ここは、とても運命的なくだりだと思います。

やがて金閣寺を焼く「私」の父親が鹿苑寺の住職で、父親が早逝したため、金閣寺のすぐそばに住み込むようになる。

破滅的な終末へと、一直線に線が引かれているように感じます。

 

興味深いのは私の中での金閣寺に対する想いの変遷です。

父親から金閣寺の美しさを伝え聞いているうちは、まだ見ぬ金閣時に対して憧れを抱き、「金閣のように美しい」などと見たこともないのに形容詞として使ってしまうほどに、金閣寺の美のイメージに耽溺していきます。

自分が美しくなく、吃音もあることで、この世の美しく明るいものから弾かれている。

そんな想いがより深い美への妄執を生んでいるように感じました。

 

このあたりの薄暗さ、村上春樹が「近代的自我」と語った日本の純文学の内的葛藤と煩悶が丹念に描かれています。

なぜ金閣寺を焼くに至ったのか?

なぜ焼かれるのが金閣寺でなければならなかったのか?

そこに至るまでの心理描写の奥深さは、人間の精神の歪みに対する三島由紀夫の鋭い視線を感じるような思いでした。

 

鹿苑寺で徒弟として住む込むようになって、「私」は金閣寺のすぐそばにいられることに喜びを感じ、心の中で金閣寺に向かって「何故それほど美しいのか、なぜ美しくあらねばならないのか、語っておくれ」と問いかけます。

そして、やがて戦争の火で焼かれて滅びゆくかもしれない金閣寺の存在を身近に感じさえしています。

ある意味、この時期が私と金閣寺にとって蜜月ともいえる時期だったのでしょう。

しかし、戦争と滅びの可能性が私と金閣寺を密に結び付けていた時期は、終戦とともに終わってしまいます。

金閣との、美との、断絶。

金閣と私の関係は絶たれたんだ』と私は考えた。『これで私と金閣とが同じ世界に住んでいるという夢想は崩れた。またもとの、もとよりももっと望みのない事態がはじまる。美がそこにおり、私はこちらにいるという事態。この世のつづくかあぎり変わらぬ事態・・・』

 

もしもこの時、空襲で金閣が焼かれていたら。

「私」はこのような断絶を感じることもなかったのでしょう。

中村文則が『遮光』で、主人公がどうしようもなく明るく温かいものから弾かれている感覚を描写していましたが、金閣寺でも「私」が決定的に美と隔たれている、焼けつくような強い絶望が描かれています。

 

憧れ、滅亡の予感から時には身近にさえ感じた金閣寺は、生き永らえることに永遠の美を体現し、「私」は断絶を感じます。

しかし、「私」が人生に触れようと(下宿の娘とイチャラブ)する時、忽然と現れて娘を拒み、「私」が人生へと、月並みな営みへと手を伸ばすのを妨げもしました。

「私」の疎外を取り消し、圧倒的な美と永遠で包むことで、人生を断念させた。

「そんな娘より、私の美のほうが圧倒的なんだからねっ」っていう、ツンデレ娘を思わずイメージしてしまいましたが、いったん拒んでおきながら肝心な時に邪魔するとか、どないやねんって感じです。

 

ただ、もちろん金閣寺が本当に現れたのではなく、「私」の中の美の象徴である金閣寺が、永遠とも言うべき美に触れる境遇にありながら、月並みな幸福を手に入れて「あちら側」に行ってしまうことを拒絶した。

自己の中の美なるものの規範ともいうべき存在の金閣寺が立ち現れたのは、そのような「私」の中の観念的な葛藤に原因があったのではないかと思います。

人並みに恋愛をして、女性と結ばれることを拒否する「私」の自我の象徴が、金閣寺であったとも言えるのかもしれません。

娘が金閣から拒まれた以上、私の人生も拒まれていた。隈なく美に包まれながら、人生へ手を伸ばすことがどうしてできよう。美の立場からしても、私に断念を要求する権利があったであろう。

 

金閣のせいで、自分は人生から隔てられ続ける。

憧れから始まって、断絶を経て、人生を断念させる障壁のような存在へと変化していった「私」の中の金閣寺

出奔して、世界の果てのような荒々しい日本海を眺めながら、彼が捉われた想念は衝撃的なものでした。

金閣を焼かねばならぬ』

それは青天の霹靂のように閃いたようにみえて、やはりどこか運命的でもあり、「私」と金閣寺との関係性の変遷の中で、滓のように少しずつ溜まっていったいった悪意が、意識の中で表面化し言語化してものであったのだと思います。

そうしてついに「私」はかつて憧れた美に対して、金閣寺に対して強い憎しみさえいだくようになります。

「美は・・・美的なものはもう僕にとって怨敵なんだ」

「私」と金閣寺の関係の変化を追っていくと、なぜ放火事件を起こすに至ったのかが伝わってくるように思います。

 

③鶴川と柏木

「私」の思想、情緒に大きな影響を与える2人の友人、鶴川と柏木。

対照的な2人ですが、2人との交流は「私」の精神に大きな影響を与えます。

この2人との交流の場面と、その影響が僕にとってとても興味深かったです。

 

鶴川は優しく繊細な感性を持った男で、鹿苑寺の徒弟として寝食を共にします。

「私」の吃りを馬鹿にせずに、受け入れる優しさ。

「私」の闇をも光へと転化させるような、純粋で明るい存在。

もしも彼が生きていたら、違った未来があったのではないかと思わせるような存在でした。

2人の交流の場面は読んでいてとても楽しかったですし、僕も過去の友人との交流を思い出しました。

青年の時期は交流する友人から受ける影響はとても大きく、時には人生の行く末すら左右してしまうものだと思います。

 

柏木はとてもトリッキーでアクの強い存在で、私と同じように障害(内翻足)を持ちながらも、不適で独自の思想を持っています。

どことなく太宰治人間失格』の堀木を思わせるような、斜に構えた不良な感じが魅力的です。

 

作品の後半で、実は鶴川と柏木が友人で、手紙をやり取りするような親密な仲だったというのは大きな驚きでした。

しかも、鶴川の死因が自殺であり、明るく陽の存在だと思っていた彼が実は心に暗いものを抱えて生きていた。

親友だと思った彼の内面を知り得なかった「私」の落胆と絶望はいかばかりか・・・。

そんな「私」に柏木が投げかけた言葉がこちら。

「どうだ。君の中で何かが壊れたろう。俺は友だちが壊れやすいものを抱いて生きているのを見るに耐えない。俺の親切は、ひたすらそれを壊すことだ」

いや、悪魔かお前は(笑)

光だと思っていた鶴川の心が暗く汚されていた。

そして、そのことを知り得なかった絶望がより強く破滅へと駆り立てたように思います。

 

④美とは?滅びの美学とは?

吃音を持って生まれてしまった自分と、美との隔たり。

それは、金閣寺と出会う前にも描写されています。

中学校に遊びに来ていた海軍兵士の刀に醜い傷をつけたこと。

美しいもの、自分とは隔てられた輝かしい何かに対して行う卑劣で暗い復讐。

思えば、この頃から「美」への復讐の芽が育っていたように思います。

のちの金閣寺放火にも繋がるような、象徴的なエピソードだったのではないでしょうか。

 

そして、有為子の存在。

何度も執拗なまでに出てくる、「私」がかつて淡い想いを寄せていた少女。

私を拒絶し、やがて死に至った。

「私」は有為子が死に滅びることで、彼女を手に入れることができたと妄信し、その幻影を追い続けます。

 

本来、あちら側にいて「私」が触れ得ない遠い存在だった有為子。

しかし、彼女が失われることで、「私」は永遠に彼女を手に入れることができる。

サイコパスの思考ですが、私はそのように考えた。

そして、女性の美の象徴的存在のように重ね続けたように感じました。

 

失われることで、永遠に対象を手に入れることができる。

滅することで、金閣寺を、美を永遠に手に入れることができる。

金閣寺を手に入れて、支配し、自らの人生を超越するには、認識では生ぬるく行為に至らなければならない。

金閣寺を焼かねばならぬ。

という、思考の変遷だったかのように思います。

 

幼少期から繰り返された、美との断絶、そして滅びによる同化。

それは、もちろん彼の精神の中での妄執であったに違いないのですが、まごうことなき真理でもあったのだと思います。

ですので、金閣寺を焼くという行為には、怨敵となった美への復讐という意味以外にも、滅びによって、金閣寺を、美を手に入れようとしたのではないかと思いました。

 

滅びることによってその本質を最大限に開花させるような美学。

しかし、「私」が生きようと思ったと綴る最後は、もはや眼前に広がる泥濘の中を歩き続けるような昏く救いがない人生をそれでも受け入れるような、決意のように感じました。

 

 

 

5、終わりに

 

いや、だいぶ今回の感想記事は難産でした。

読後1週間以上経ったかな?

なにか書きたいテーマが散らばりまくって、まとまらないし、書けば書くほど『金閣寺』の物語の本質から外れていくようで歯痒かったです。

また10年後ぐらいに読み返すとまた違った側面が見えたりするのかな?

 

硬質な文体で描かれている作品だけに、初読時の読みにくいイメージが残っていましたが、今回再読するに当たってはわりとするする読めました。

難解な文体で、「実は」平易な物語を描いているような印象すら受けました。

平易な文体で、難解な物語を描いている村上春樹とは対照的ですね。

文体が易しすぎると、物語が陳腐になってしまうことを恐れたゆえでの文体だったのでしょうか?

文章、文体と物語の相関関係って面白いですね。

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