1、作品の概要
1973年3月30日に刊行された。
単行本で191ページ。
2024年8月23日に映画が公開予定。
ダンボール箱をすっぽりと被り、世界を覗き見る「箱男」についての物語。
2、あらすじ
街の片隅で生き続ける異形の彼らは一体どんな存在なのか?
箱男にその箱を5万円で売ってくれと言った看護婦、空気銃で箱男を襲撃した贋医師の贋箱男。
奇妙な存在に触発されながらやがて、物語は融解し、物語であることすらやめてしまう。
果たして、この手記を書いている存在とは?
なにがどこまで真実なのか?
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
安部公房は、以前から気になっている作家ですが、26年前ぐらいに『砂の女』を読んで以来彼の作品を読んでなかったのでこの『箱男』はほとんど初読の作家のような感じで読みました。
キッカケは、『箱男』の映画化で8月23日に公開される映画『箱男』が面白そうで、かつ僕の好きな感じのトリッキーかつエロティックかつ幻想的な作品の感じがしたので、これはまず原作を読まねばと思った次第です。
期待の斜め上をいく小説。
映画がこの作品をどのように表現するのか非常に楽しみです。
4、感想(ネタバレあり)
①逸脱者としての箱男、そこにある甘美な価値観の転換
いやー、幻惑されるような不可思議な小説。
物語のようで、物語であることを否定するような、捉えどころのない文章の連なりでした。
『箱男』は、実際に安部公房が浮浪者の取り締まりの現場に立ち会った時に上半身に段ボールを被った浮浪者がいたことにショックを受けて、そこからイマジネーションを得たそうです。
「逃げ出してしまった者の世界、失踪者の世界、ここに住んでいるという場所をもたなくなった者の世界を描こうとしています」
『箱男』を書く前に安部公房はこう語っていたようですが、箱男はまさにそういった放浪者ともいうべき存在で、人の営みから大きく逸脱した存在であります。
しかし、逃避したのかというとまた違った印象があり、箱に入り他者を覗くという行為に憑りつかれて箱に入って生活するという魔力に魅入られてしまったというような印象があります。
≪たとえばAの場合≫という挿話で、偶然アパートから箱男を見かけ、空気銃で彼を撃ち撃退するが、自らも箱に入って生活するという魔力に抗えずに木乃伊取りが木乃伊になてしまうようなエピソードが描かれている。
Aが現状の生活に不満があったかどうかは明確ではないが、現実からの逃避というより箱の中で生きる素晴らしさ、箱の中から見える風景に魅了されてしまった印象が強いように思います。
現実に不満もなく、逃げ出したかったわけでもないのに、ある日突然箱男として逸脱者になってしまう。
誰もが、そんなふうに意図せずにいつのまにか社会から外れた存在になってしまう可能性があるということを、箱男という存在を通して描いているように感じました。
浮浪者の方もそうなのかもしれませんが、社会的な生活と地位、安定した文化的な生活、なんてものは案外あっという間に消失してしまうものかもしれませんし、一旦遠ざかってしまえば、存外そんなものの価値は取るに足らないものなのかもしれない。
そして、案外逸脱したあとの日々に、それまで感じられなかった甘美な生活があったのだとしたら・・・。
社会から逸脱した存在になった人間の悲哀を描くのではなく、そこにある蠱惑的な魅力。
安部公房は、箱男を通して軽々とそれまでの生活を捨てさせてしまうような圧倒的な価値観の転換を描いたのではないかと思います。
②覗く
『箱男』はエロティックな作品でもあり、「覗く」という行為についても度々言及されています。
箱の中の小窓から覗く。
相手に自分の姿を曝さずに、自分は心ゆくまで他者を観察することができる。
映画について書いたネット記事でもありましたが、それはまるで現代社会のインターネットのようでもあり、箱男はインターネットで他者を一方的に観察し攻撃するような引きこもりのようでもあります。
パリオリンピックでも、誹謗中傷が問題になっていますが、有名人のSNSに一方的に攻撃をするのは、自らの姿は曝さずに他者を視姦し続ける箱男のようだと思いました。
作中でノートを書いている箱男は女性の脚フェチで、箱の中から女性の脚を盗み見ています。
うん、脚フェチいいっすね。
僕も、箱に入って覗きたい誘惑を振り払うのに必死です。
贋医者のもとで看護婦として働いている彼女こと戸山葉子。
彼女は、モデルをしていたこともあり、見られるという行為に慣れている天性の存在。
その彼女が服を一枚づつ脱いでいく様を、贋医者が贋箱男として箱の中から覗いているのを、箱男が外から覗いているという構図。
いや、なんだこいつら(笑)
3層に渡る覗くという行為の連鎖。
変態ここに極まれり。
この3人の愛憎が物語の中軸になり、贋箱男から3人で暮らす提案をされます。
しかし、物語が沸騰したように思えた瞬間に、安部公房は物語が物語であることを否定し始めます。
③非小説、物語であることの否定
いや、クソ変人。
安部公房先生、サイコーです。
それまで、おそらく箱男の視点から語られている物語だと思われていましたが、途中からそんな前提がぶっ壊されていきます。
手記形式で書かれていたこの物語を書いていたのが誰だったのか、どこまでが現実でどこまでが空想なのか。
そもそもこの手記を書いているのが、箱男なのか・・・。
物語の根幹がグラグラと揺らぎ始めます。
物語が途中で物語であることをやめてしまう。
そして、読者を翻弄するかのようにいくつかの挿話、写真などが挿入される。
非小説。
物語の解体。
中盤以降の展開はまさにカオスで、挿話と妄想のような彼女との生活で埋め尽くされていました。
どこに向かっているのかわからない不可解な文章群。
でも、イメージの奔流とフェティシズムの荒々しい現出に心地よく漂う。
シュールレアリスムの絵画のような、感性に訴えかけてくるような文章。
心地よかったです。
最後の「救急車のサイレンが聞こえてきた」の一文が示唆するもの。
この断片的な物語の奔流は箱男の妄想の産物であったのだろうと僕は解釈しました。
しかし、箱男が本当に箱男であったのかも不明で、箱男という存在も彼の憧憬が生み出した存在かもしれない。
全てが混沌のうちに終わっていく感じがとても好きです。
5、終わりに
箱男はいるのに箱女は存在しないのか?
現代のジェンダーレスの時代では、「箱人間にすべき」という論争が巻き起こりそうですがまあどうでもいいです。
『箱男』の面白いところは、一度は丹念に積み上げた物語を、中盤以降で一気に崩していくところ。
そこには何か独特のカタルシスがありました。
最初からカオスにしたのではこの感覚は得られなかったと思いますし、ある意味語り手の不在、物語の解体を積み上げたあとで行ったことがこの作品の優れたところだと思います。
幼児が積み上げた積み木を笑顔で崩していくような。
そんな印象の作品でした。
原作を読んで、いやこれをマジで映画化しちゃうんすか(笑)って思いましたが、映画を観るのがますます楽しみになりました。
難解すぎるし、万人に理解されるタイプの作品ではないですからね。
でも、まあキャストも含めて楽しみですね。
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