1、作品の概要
2022年2月に刊行された、永井みみのデビュー作。
第45回すばる文学賞受賞作。
第35回三島由紀夫賞にもノミネートされた。
認知症を患う女性の目線で、彼女の壮絶な人生を振り返る。
2、あらすじ
安田カケイは、認知症の独居高齢者でヘルパーとデイサービスを併用しながら生活している。
介護職員の「みっちゃん」たちに手伝ってもらいながら日々暮らしていたが、1人の「みっちゃん」から「人生を振り返ってしあわせでしたか?」と問われ、自分の人生を振り返り始める。
自分の親しい人の死も忘れながら生き続けるカケイの脳裏に介護職員の「みっちゃん」たちとは違うほんとうのみっちゃんが浮かび、壮絶な一生を思い出す・・・。
3、この作品に対する思い入れ、読んだキッカケ
ツィッターでこの『ミシンと金魚』を紹介されていた方がいらっしゃって、表紙と帯、56歳でデビューしてすばる文学賞を受賞した異色の女性作家・永井みみさんのことが気になって読んでみました。
想像していた以上の衝撃と深い感動。
認知症の方の主観で世界を描くと、こういう感じになるのかと興味深く読みました。
4、感想・書評(ネタバレあり)
①一人称の斬新な活用。認知症の女性の主観で描く物語
『ミシンと金魚』を読み始めて、独特の語り口の一人称の文章が宇佐見りん『かか』を彷彿とさせられました。
永井みみと金原ひとみの対談記事で『かか』から影響を受けたと永井みみ自身も話しています。
川上未映子『乳と卵』を読んだ時にも思いましたが、女性作家が一人称を使って鮮やかに世界を描くときの物語の破壊力は凄まじいですね。
周りの空間が全てキャンバスになって、鮮やかに色を塗りながら、自分だけの世界を描いていくように、彼女たちの文章はあくまで自らの視点で世界を色鮮やかに塗り直して作り替えていきます。
『ミシンと金魚』ではその一人称の主が認知症を持っている高齢者で、記憶が飛んだり、あやふやになったりします。
認知症の方がどういった視点で考えで周囲と接しているのか。
とても斬新な物語の視点、描き方だと思います。
記憶が消失しても、自我がなくなってしまったわけではなくてどんどん不確かになっていく世界の中で溺れないように必死にもがいている。
カケイさんが見ている世界はモネの絵みたいにカラフルにぼやけていきます。
でも、くっきりとした輪郭がある風景より、ぼやけた風景の方が楽しく面白いこともあるのかもしれませんよね。
読みすすめていて、これ書いた永井みみさんって、絶対に介護職員だ、って思いました。
現場に出ていた人じゃないとわからない在宅介護あるあるがたくさん散りばめられていて、物語にリアリティを与えているように思います。
冒頭の感じ悪い女医さんのエピソードなんかもよくわかるなぁって、いや親身になってくれるお医者さんも多いのですが、ああいう扱いをされることもありますし、実際はヘルパーが口を挟んでも相手にすらしてもらえないことも多いですね。
実際に彼女は訪問介護の仕事を経て、現在もケアマネージャーの仕事をしていて、在宅介護の仕事に従事し続けているようです。
介護の現場で垣間見た認知症の方が見ている風景、感じていることを時にはコミカルに描写していて、カケイさんは可愛いタイプの認知症のおばあちゃんでみっちゃんたちにも好かれているように思います。
ただ認知症が進行して自分の息子が死んだことも忘れてしまって、自分で立つこともままならなくなって、医者にも無視されて人間扱いしてもらえない。
カケイさんはよくしゃべる可愛いおばあちゃんを半ば演じながらも、心のうちには衰えていく自分の身体と、なくなっていく記憶に絶望感も感じているように思います。
女医は聞こえないふりして、機械をカタカタやってる。
あんたねぇ、と言いたくなる。あんたねぇ、それは耳のとおくなったとしよりだけの秘密兵器で、あんなみたいな人間が使っちゃっちゃ、だめでしょう。としよりがやるから、愛嬌があっておもしろいんだから。都合のいいときだけ聞えて、都合の悪い時は聞えないふりをする、アレ。ね。
だけども。今のはたんなる無視で、やられた方はせつなくて、いかりをとおりこして、みじめんなる。だって医者に馬鹿にされちゃっちゃ、それはもう、人間として生きてても死んでてもどっちでもいい、ってゆう犬猫宣告にひとしい。
②カケイさんの凄惨にも思える人生と「みっちゃん」
デイサービスの職員の「みっちゃん」と訪問介護ヘルパーの「みっちゃん」たち、カケイさんは個々人には認識していないけど、全員「みっちゃん」たちとして認識しています。
認知症が進行した方は名前や顔などを覚えるのが難しい方も多くて、介護職員はわりと一緒ごっちゃに認識されたりすることもあるのですが、カケイさんの一人の「みっちゃん」から分身して目の前の「みっちゃん」になるっていうユニークな捉え方にはなるほど~って思いました。
そういうユニークな「みっちゃん」の捉え方の裏には「ほんとうのみっちゃん」にまつわる悲しい話が・・・。
表向きは明るくて可愛らしいカケイさんが通り抜けてきた人生は彼女のキャラクターからは想像できないような壮絶なものでした。
母親はカケイさんを産んですぐに亡くなり、まま母は元女郎で薪でさんざんに殴られた挙句に放置されて、犬のだいちゃんの父を飲んで育ち、夫は健一郎が産まれてすぐに連れ子のみのるを置いて蒸発し、カケイさんが継子のみのるに繰り返し犯されて生まれたのが道子こと「みっちゃん」で・・・。
ってもうこれだけで、やめてぇぇぇぇぇってなりそうな凄惨さですよね(^_^;)
でもわりと80~90歳ぐらいの方のお話を聞いていると、柔和そうな方がニコニコしながら語る昔話がこのレベルの話だったりすることがあります。
時代と言ってしまえばそれまでなのでしょうが、人間の命や人権が軽くて、わりとホイホイ簡単に死んだり、蹂躙されたりということが多かったのでしょうか?
それでも道子の存在はカケイさんのみならず、兄貴や、広瀬のねーさんの心を虜にします。
半グレの兄貴もマトモになってしまう、道子の、子供の破壊力よな。
それでもそんな幸せは長く続かず。
カケイさんは、兄貴も自分のことも天が許してくれなかったと言います。
まさにテンモーカイカイ(天網恢恢)。
天が張りめぐらした網は広く、目が粗いようだが、悪人・悪事は決して取り逃がさないということ。 天道は厳正であり、悪は早晩罰を受けるということで、悪事を戒める言葉みたいですね。
一度人の道から逸れてしまった人間を、おてんとさまは、そう易易とはゆるしてくんない。
なかでも、付け焼刃の改心なんかをおてんとさまは一等きらって、一度もちあげといて、どすんと落とす。
兄貴もあたしも、案の定、もちあげられて、どすんと落ちた。
道子は庭の金魚を飼っていた池の水を飲んで、疫痢になって死んでしまいます。
物語の中でも子供が死んでしまうのはとても辛いですね・・・。
カケイさんは、道子に甘えてミシンに打ち込んで、自分が殺してしまったと生涯消えることのない傷を心に負うことになります。
ミシンは、カケイさんにとって鬱屈した日常を貧しさを抜け出すための希望だったと思いますが、そのミシンに熱中しすぎたことがキッカケで娘の道子を死に追いやってしまったとしたら、これほど皮肉なことはありません。
まいにちまいにち、便所に行くのもしんどくて、忘れん坊で、ずうっとまえのことはおぼえてっけど、最近のことはつぎからつぎへとわすれっちゃう。どうせなら前のことも、道子の死んだ日のことも、わすれてしまいたいんだけど、そういうことはわすれない。
誰にでもかあしゃんって呼んでいた道子を習って、介護職員をみんな「みっちゃん」って呼ぶようにしたのは道子のことを忘れないようにするためなのでしょうか?
③物語化していく人生
道子の死んだ家で、ミシンが踏めなくなっても、息子の健一郎も死んでしまっても。
生き続けているカケイさん。
「あたしはいったい、いつまで生きれば、いいんだろう」
まるでバツのような生。
テンモーカイカイ。
いつ人生の終わりが来るのか?
それは誰にもわかりませんし、周りの大切な人は死んてしまってどこにも希望は見当たらないのに、思いがけず生き永らえ続けることもあります。
「もう死んでしまいたい」「生きていても何もいいことなんてない」
僕も介護の仕事をして、そんなふうな言葉を投げかけられることも多くありました。
そんな時にうまい言葉なんて見当たりませんし、寄り添うことしかできない。
でもその人の人生に、物語に寄り添うことが何かの支えになれたらいいなと思いますし、『ミシンと金魚』にもそんな願いが篭められているようにも感じます。
カケイさんの物語に、たとえ端っこでも触れてくれたたくさんの「みっちゃん」たち。
冒頭で「カケイさんは、今までの人生をふり返って、しあわせでしたか?」と聞いてきたガタイのいい「みっちゃん」は、カケイさんの人生のあらましを知っていてそんな質問を投げかけたように思えます。
介護職員は、ご利用者の人生のあらましや、家族関係を事前に書類で確認してからケアに当たりますので。
もしかしたら、実は何度もカケイさんからお話も聞いていたのかもしれませんね。
ガタイのいい「みっちゃん」もなかなか辛い人生を送っていて、だいぶいっぱいいっぱいで、そんな中自分よりも数段壮絶な人生を送っていてそれでも朗らかに笑うカケイさんと接するうちに、そのような質問を投げかけたくなったように感じています。
「チャンスを待て」
デタラメのこじつけのように飛び出したカケイさんの答えに、それでも「みっちゃん」が心を揺さぶられて涙を流した理由は、それだけ辛い人生を送っているカケイさんの口から飛び出した、前向きな言葉だったからなのではないでしょうか?
たくさんの色んな「みっちゃん」たち。
自分がほんとうのみっちゃん、娘の道子にしてあげられなかったこと。
一緒にいられなかったこと。
道子のかけらみたいな「みっちゃん」たちとの触れ合いの中で、贖罪とぬくもりを求めていたようにも思えてきます。
「人生は物語」といいますが、僕も介護の仕事をしてご利用者さんから自分の人生の話を聞かせて頂いて、まるで物語のように劇的な人生に驚いたことが多々あります。
もちろん、それはあくまでその方々の主観から語られている話なので、別の人間からするとまた違った解釈があるのかもしれませんが、それでもそれぞれに語られる人生は脈々と息づいてその人だけの物語になっていきました。
それがたとえ100%事実じゃなかったとしても、主観に歪められていたとしてもその人にとっての真実だったらそれでいいように思います。
そういった意味で、事実は主観によって変容して人生がひとつの物語になっていく。
人生が物語化していく。
そういった物語が誰かの心に灯り、継承されていく。
永井みみさんが『ミシンと金魚』に託した想いはそういったものだったのではないでしょうか?
壮絶な人生を送っていて、みっちゃんに対する罪の意識に苦しむカケイさん。
でも、彼女が認知症を患って見る世界はどこかカラフルでにぎやかです。
長男の嫁に頭を叩かれても、足腰が立たなくなっても、大事な人達のことも忘れてしまっても、それでもどこかにほっこりとした笑いがあって、物語に光を与えているように感じます。
最後のお迎えのだいちゃんとチャンスのリヤカはどこか微笑ましかったですね。
死ぬ前に手の上で咲く花はお釈迦様の蓮の花でしょうか?
おばあちゃんが言っていた花を、カケイさんも自分の手のひらの上に見ます。
花はきれいで、今日は、死ぬ日だ。
身体が痛くて死にかけているのに最後にカケイさんは何かいいこと、得なことを探して必死に目を開けます。
他人から見たら凄惨な人生だったかもしれないけど、それでも彼女は何かいいことを探してミシンを踏み続けていたのでしょうか。
玄関先で転倒して、ひとりぼっちで死にそうになっているからあがりかまちの裏側に道子が残したちっこい、手あとを見つけることができた。
ああ、けど、こんなことでもなかったら、あがりかまちの裏側なんて見ることもなかったろう。
しみじみ、おもう
わるいことがおこっても、なんかしらいいことがかならず、ある。
おなし分量、かならず、ある。
いろんなことが辛いことがたくさんあったのだけれど、カケイさんはしあわせだった。
そう思わせられるようなラストでした。
あい。
5、終わりに
もう本当になんというか魂の髄まで(そんなもんあんのか?)えぐられるような、とてつもなく刺さりまくる物語で、たちまち号泣イン・ザ・ハウスでございました。
僕も永井みみさんが過去にしていたのと同じように訪問介護の仕事をしているので、在宅介護のことや、認知症の方の心理などとても身近に感じながら読むことができました。
彼女は自分が関わってきたたくさんの「カケイさん」のカケラを集めて1人の「カケイさん」創りだしたのだと思います。
天網恢恢、逆縁、死ぬ間際に見える花のことなど仏教的な要素も強く感じる作品でした。
あっ、リヤカのお迎えも(笑)
永井みみさんは仏教に縁のある方なんですかね?
道子を産んだ時に、逆にカケイさんが道子の子供だった前世らしき映像もフラッシュバックしています。
輪廻、生まれ変わりも仏教的な思想ですね。
本当にすばらしい作品で、しかも同じ介護従事者が作者ということに感銘を受けました。
今後の永井みみさんの作品にも期待したいです♪