1、作品の概要
1999年に刊行された江國香織の長編小説。
離れ離れになった恋人を待ち続ける母親と、娘の物語。
母親の葉子と娘の草子の一人称の視点から交互に語られる。
第13回山本周五郎賞候補作に選ばれた。
2、あらすじ
葉子は「必ず戻ってくる」と言って別れた「あのひと」を、娘の草子と一緒に待ち続けていた。
結婚していた桃井先生とも離れて、東京を出た2人は「神様のボート」に乗って漂流し続け、様々な土地を転々としながら暮らし続ける。
やがて成長した草子は母親と2人で待ち続ける生活に疑問を感じるようになる。
3、この作品に対する思い入れ
江國香織の『神様のボート』は、ツィッターで「名刺代わりの小説10選」でもあげたくらいとても好きな作品です。
初めて読んだ時はまだ20代でしたが、物語に流れる不思議な世界観。
愛情や幸福、狂気や絶望、そういった相反するものが水彩絵具のうすいパステルみたいに淡く淡く滲みだして葉子と草子を景色を染め上げていく・・・。
そんなこの作品に強く惹かれています。
『きらきらひかる』『落下する夕方』『流しのしたの骨』『抱擁、あるいはライスには塩を』など好きな作品は多いですが、僕は江國香織の作品の中で『神様のボート』が最高傑作だと思います。
4、感想・書評(ネタバレわりとあり)
①物語が湛える静謐な狂気
江國香織自身があとがきでも書いていますが、僕も20代で初読した時にこれは狂気の物語だと思いました。
どれだけ時が経っても愛しい「あのひと」を一途に待ち続ける葉子と、そんな母親の愛の物語を一緒に生き続ける草子。
ちょっと普通ではないですし、葉子は無意識のうちに草子を自分の箱庭のような物語の中に閉じ込めてしまっていて、彼女の人生も無自覚に支配しようとしているようにも思えます。
悪気もなく。
そういったある種の純粋さや、浮世離れした葉子の振る舞いに僕は狂気を感じてしまうのです。
小さな、しずかな物語ですが、これは狂気の物語です。そして、いままで私の書いたもののうち、いちばん危険な小説だと思っています。
そういった狂気はとてもオブラートに包まれています。
ピアノや、お酒、たくさんの人達とのエピソード、散歩などとても微笑ましくて綺麗な時間達によって。
葉子自身はとても魅力的で破天荒で美しくて周囲からも愛される人物なのですが、狂気に満ちた「あのひと」への愛情が心の奥底にあって、他のことはその余剰にすぎない。
「宝物」と愛している娘の草子でさえも、草子を通して「あのひと」との繋がりを感じたいから愛しいるのではないかというふうに感じてしまいます。
そのことは聡明な草子自身も感じていて、物語の後半で葉子に自分の想いをぶつけています。
ーあたしはパパじゃないもん。背骨はパパに似てるかもしれないけど、でもこれはパパの背骨じゃなくてあたしのだよ。
ママには全然わからないらしかった。
って、まるでアンチのような感想ですが、そういった静謐で透明な葉子の狂気に僕はとても惹かれたんです。
もちろん感じ方はそれぞれなのでこれは僕の感想ですし、もし不快に思われた方はすみません(^^;;
とても穏やかで風がない午後の凪いだ海のように静かな物語。
そんな温かさの中に少しだけ狂気や毒を忍ばせるのが、江國香織の作家性のように思います。
キャッチーなメロディーに、悪意ある歌詞を載せた曲を作っていたNIRVANAのカート・コヴァーンみたいですね。
②葉子について~3つの宝物と美しい愛の記憶~
いろいろブッ飛んでいる葉子ですが、ピアノが上手でショートカットが似合うスリムな美人で、まるでフランス映画に出てくる女優みたいでとても魅力的な女性です。
いや、あんまりフランス映画とか観たことないんでなんとなくのイメージ何ですが(笑)
タバコを吸ったり、お酒を飲んだりするのがサマになっている女性ってなかなか稀有な気もします。
幼い頃から奔放な生き方をしていて、中学生で派手なピンク色の髪にして、私立中学を退学に放擲されたりとなかなか個性的な存在でもありますね(笑)
江國香織の物語の主人公たちは変わった人物が多いように思いますが、その中でも葉子は異彩を放っているように思います。
とてもエキセントリックな部分があってどこか子供のような無防備さも兼ね備えているような・・・。
物語の中ではオブラートな表現になっていますが、身も蓋もない言い方をするとW不倫の末に私生児を産んで、夫と別れて両親からも離れて娘と放浪生活をしていたわけですから並のエキセントリックさではないですね。
そんな社会的には受け容れられない恋愛をして、「あのひと」の「必ず戻ってくる」と言う言葉を信じていつまでも待ち続ける葉子。
普通ならとても生々しくて滑稽な物語になってしまうと思うのですが、江國香織の文章と世界観のフィルターを通すとまるで素敵なお伽噺のように感じてしまうから不思議ですし、江國香織という作家が持つ唯一無二の力のようにも思えてきます。
葉子は、「あのひと」との再会を心の底から信じていたのでしょうか?
僕にはどことなく「あのひとを待ち続ける母娘の物語」を生きることを葉子が選んだような気がしています。
もう再び会えるかどうかは問題ではなくて物語の中を生き続けることのほうが、葉子にとっては大事なように思えます。
今度の町でも、無論楽器屋はのぞいてみた。期待なんかこれっぽちもしていないのに、のぞく瞬間はこわれそうにどきどきした。そして、わかっていたことだが、そこでギターの弦をはっているのがあのひとではないのをみて、失望というよりほとんど安堵した。
東京にもやわれていた神様のボートはゆっくりとしな流れに従って海へと流されていく。
自分がどう生きているのか。
それを決めるのは自らの主観であると思いますし、だからこそ人生は物語化していき、誰もが物語の中の人生を生きているように僕には思えてしまうのです。
人生が物語化していくためには、何もかも忘れて没頭できるような、息を呑むような素晴らしい物語が必要です。
僕は仕事が介護職なのですが、高齢者の方の人生の回顧を聞く時にとてもドラマティックであり、おそらく多分に「物語化」されていることに驚きます。
それはおそらく主観が事実を変質させてしまっている部分も多々あるのでしょう。
でも、それはその人にとっての人生であり、自分だけの物語であるのだと思います。
主観のフィルターを通して捻じ曲げられた事実より、物語化された人生のほうが鮮やかでとても美しいものだと僕は思います。
だからこそ葉子が生きる物語は美しく、『神様のボート』は多くの人を惹きつける作品になったのではないでしょうか?
だけど。
宝物の草子からのひとことで、まるで魔法が解けるように葉子の物語の世界は崩れ始めてしまいます。
土地を転々としてその土地に染まらないようにしていたのは、現実に絡め取られて自らの物語が壊れてしまうのを恐れたからでもあったのではないでしょうか?
ーあたりまえじゃないの。
むしろおどろいた顔でそう言った。
ーパパなんてどこにもいないんだよ。
言った途端に後悔した。後悔したけれど、止まらなかった。
ーもう箱の中なんだよ?いつもママが言っているじゃない、すぎたことは全部箱の中なんだよ。
物語を失った葉子は、生きる気力をなくしていきます。
そして、せき止めていた時間が彼女を飲み込んで。
ラストシーンの解釈は別れるところだと思いますが、物語と時間の呪いを自らの手で解いた彼女が、現実の世界で「あのひと」と再会できたのだと僕は思っています。
③草子について~箱庭と支配、あるいは物語の外へ~
「ママと私は旅がらす」と言って葉子が創り出した物語の世界を一緒に生きてきた草子。
葉子みたいな母親を持つ気分でどんなものなのでしょうか?
母娘ふたりでの生活は楽しくて、綺麗でピアノが上手でセンスがいい母親がいることはとても誇らしいことだったのだと思います。
ある時期まで2人は同じ物語の中を生きていて、分かちがたく一緒に生きてきたのでしょう。
だけど。
葉子の時間は東京を出た時から止まっています。
でも、草子の時間はずっと動き続けいてて、葉子が知らない間も様々な経験をして聡明な彼女は成長して自我を獲得していきます。
序盤の凪のような平穏さから、後半の不穏さへの変化はこの2人の時間軸の違いによるズレがひとつの原因だったのかもしれません。
僕的にこの『神様のボート』の大事な要素のひとつは、草子がこの葉子の物語から脱却していくことを描いたことにあると思います。
止まった葉子の時間、他の何者ともかかわらずに染まらずに自分の物語を生きようとする。
そして、その物語は草子との2人の物語でもあったのだと思いますが、その箱庭のような物語に草子はずっと居続けることはできませんでした。
これもひとつの狂気だと思うのですが、葉子は無自覚に娘の草子も自分の物語に閉じ込めていて、その世界で生きることを強要しています。
それは世界で一番優しくて強固な支配だったのかもしれません。
でも、聡明な草子ははその箱庭の世界からの脱却を試みます。
そこに衝突があったとしても、自我の獲得は喜ぶべきことなのですが親子関係には齟齬が生まれて、葉子の物語の魔法は綻びを見せ始めます。
時々、親子関係は密であればあるほど親は子供を自分の分身のように扱い、無意識下に支配してまうように思います。
でも、子供の人生は親の人生と別のものです。
いずれ、子供は親の支配から脱却してくものだと思いますし、葉子と草子の間に起こったこともそういったよくある親子関係の話だったのだと思います。
ただ。
違ったのは、葉子が創り出した物語の世界と支配の密度の濃さと、親子関係の強固さだったのでしょうか。
だけど、草子は箱庭のような葉子の世界から抜け出して、自分の物語を始めようとしたのではないでしょうか。
5、終わりに
久しぶりに再読して、以前気づかなかった要素に気づいたり、違った思いにとらわれたりして、やはり本を再読することは面白いなと思いました。
僕は良書とは再読に耐えうるもので、人生に寄り添ってくれるものであるかどうかだと思っています。
それはどんな書物でも同じで、小説でも実用書でも同じだと思いますし、人生とか運命とかいう闇夜の海を突き進むための北極星のような存在だと思います。
もし、あなたの人生が嵐の中にあったとして。
この物語がコンパスとなって、光を示してくれれば良いなと思います。
僕がそうであったように。
作中で出てきたシシリアン・キスをこの本を読んだ当時にバーで頼んでみましたが、飲むことができなかったように思います。
レシピはわかったし、今度飲んでみたいですね。
葉子が「骨ごと溶けるような恋」に落ちることになった甘いカクテルを。
「海にでるつもりじゃなかった」
いつもいつも、僕はそういう気持ちで毎日生きてます。
本当に思いもかけないことがたくさん起こります。
いつの間にか、取り返しのつかないところまで事態が進んでしまって呆然としてしまうことも多いですが。
しっかりと自分の物語を生き続けることが、大事なのだと思います。