1、作品の概要
吉田修一の短編小説『犯罪小説集』の中から、「青田Y字路」、「万屋善次郎」の2作をリメイクしてひとつの話にまとめた映画。
同じ街で起きた二つの事件を描く。
2019年10月公開。
監督は、瀬々敬久。
12年前の未解決幼女誘拐事件の容疑者の青年を綾野剛、その事件で心に傷を負った少女を杉咲花、故郷の限界集落で養蜂家として暮らす男性を佐藤浩市が演じる
2、あらすじ
とある過疎地の村で、小学生の女の子が誘拐されて行方不明になる事件が起こる。
事件は未解決のまま、川から女の子のランドセルだけが見つかった。
一緒に下校していた紡(杉咲花)は、Y字路で彼女を見送った最後の目撃者となり、被害者の祖父から非難されて心に傷を持ちながら生きるようになる。
12年後、紡はひょんなことから知り合った豪士(綾野剛)と心を通わせ、彼女が笛を演奏する祭りを観てもらう約束をするが、村の住民から誘拐事件の犯人と疑われて焼身自殺をしてしまう。
時は流れて、東京の青果市場で働く紡に母からメールが届き地元の祭りに参加することになる。
祭りの場で、幼馴染の広呂(村上虹郎)に強引に言い寄られるが善次郎(佐藤浩市)が通りかかり事なきを得、豪士の死の真相を知る。
逃げるように東京に戻った紡に職場に広呂が現れて、同じ職場で働き出したことを告げる。
以前から、想いを寄せられて辟易していた紡だったが、広呂の明るさに少しずつ心を開いていくようになるが、広呂は重い病気にかかり入院してしまう。
その頃、村では養蜂家として生計を立てながら、村人から万屋として頼りにされていた善次郎。
区長の娘で未亡人の久子とも親しくなり距離を縮めていくが、行き違いから村八分にされてしまう。
追い詰められた善次郎は、徐々に精神を蝕まれて・・・。
そして、紡は帰郷して豪士母と会う。
闇に葬られた誘拐事件の真相は?
紡は痛みを超えて、未来を生きることができるのか?
映画『楽園』本予告/綾野剛・杉咲花・佐藤浩市/衝撃のサスペンス大作
3、この作品に対する思い入れ
原作は未読でしたが、綾野剛、わりと好きだしなんとなく面白そうだなーって軽い感じでDVDをレンタルしました。
音楽も映像も綺麗で、作品のテーマは重いですが美しい映画だと思いました。
原作も読んでみたいですね。
4、感想・書評(ネタバレ)
信じた人は殺人犯なのかー?というキャッチコピー通り、もっとサスペンス色が強い映画なのかなと思いましたが、生き方とか、ヒューマンドラマ要素の強い映画でした。
同じ村を舞台にした2つの事件。
痛みを抱えながら前に進みたくてもがく紡と、裏切りによって心を病み過去を抱えて1人で生きていくこうとする善次郎。
この2人の生き方の違いが光と闇のコントラストを描き出します。
最初は何故元々2つだった物語が一つになって映画になったのか、単純に尺の問題なのかなと思ってましたが、映画を観終わって感想を書きながら、この2人の生き方を対比させる狙いがあったのかな、と思い当たりました。
紡は過去に起こった誘拐事件についての罪悪感、心の傷を抱えて生きています。
「私が幸せになっていいのかな・・・」というセリフから感じられるように、最後の目撃者だったことで被害者の家族から責められていることもあって、理不尽ながらもどこか後暗い気持ちを覚えながら日々を生きています。
東京に出たあとも、友達も恋人も作らずに、楽しみもなくただただ生き抜く日々。
親からも、「何を考えているかわからない」という有様です。
でも、一緒に帰っていた同級生が行方不明になって、その家族からも責められるという体験を幼い頃にして、罪悪感を抱えずに生きていけるのでしょうか?
しかも、紡は被害者の女の子が遊びに誘ったのを無下に断ったあとの事件だったので、後悔の念はひとしおだったのだと思います。
しかし、豪士に出会って少しずつ心を開いていく中で、彼も疑惑の中命を落とします。
豪士もどこかに行きたいと思ったことはある?という問いに「どこに行っても同じ」と答えたように、自分の国籍や、それによる差別、母親との関係など様々なことで悩みを抱えています。
生きづらさや、惨めな気持ちに打ちのめされるような過去の経験にも苛まされています。
このあたりの綾野剛の演技はリアリティがあります。
さすがですね。
同類愛憐れむではないですが、傷を持つもの同士が寄り添う心理だったのでしょうか?
2人は次第にひかれ合っていたのですが・・・。
ペシミックな生き方をして、おそらくこの世が楽園ではなかった豪士。
病を得て、5年後生存率が50%と言われながらも、この世は楽園だと言う広呂。
この2人もまた、対照的な生き方をしている2人で、紡はそれぞれに惹かれながら過去の体験を乗り越えるための力を得ていくように思います。
自分の中にある課題や、トラウマなどとても個人的な心の問題を乗り越えるために何が必要か?誰かが助けてくれるのか?
最後に乗り越えるのは自分1人かもしれませんが、触媒になってくれる存在、支えになってくれる存在なら身近にいるのかもしれません。
事をなすのはたとえ1人でも、その行いにたどり着くまでにたくさんの人の心の力を借りていることもあるのではないかなと思います。
ラストシーンの紡の心の叫びは圧巻でした。
長年心に積もり積もった鬱憤が一気に炸裂した瞬間。
贖罪、赦しなどありますが、いつまでも過去にとらわれて生きてはいけない。
紡にとって前に向かって踏み出すための一歩であり、産声のような命の奥底から絞り出されるような本能的な叫びであったのではないかと思います。
杉咲花の演技も良かったと思います。
対して、善次郎は器用にうまくやっていたように思えていたのに暗転。
久子が彼のことを案じてくれているのも振り払って、自分の過去に浸り現実から逃げ続けます。
彼の死んだ両親、死んだ妻との思い出を反芻して精神にも異常をきたし始めます。
マネキンに亡き妻の服を着せて屋外に並べたりして、未来や現実を見ることができず、やがて破滅的な連続殺人事件を起こしてしまいます。
事件をキッカケに心に闇を抱えながらも、未来に向かって前を向いて生きていった紡とは本当に対照的です。
この世は楽園でしょうか?
生まれてきた意味は?
やり直したい過去は?
この世界が楽園じゃなくても先に進んでいく。
ポジティブかネガティブかの聞き飽きた単純な二元論ではなく、苦しみだったり、過去の昇華できない想いも、まとめて抱えて生きるしかないのだと思います。
だって、それが生きるということだから。
この世が楽園じゃなくたっていい。
そんなことどうでもいい。
だって生まれたから。
この世に生まれたんだから。
そんな紡の叫びが聞こえたように思えた映画でした。
5、終わりに
毎度のことながら、とても的はずれなことを言っている気がしてならないのですが(笑)
僕はこう感じたということで(ーー;)
でも、ここ最近の小説、映画は「生きにくさ」を扱った作品が多いように思います。
そういう時代なのでしょうね。
重松清さんが赦し赦される3部作的な「かあちゃん」「カシオペアの丘で」「十字架」の3作を書かれましたが、どれも重く人生の深淵をえぐりとるような凄まじい作品でした。
楽園に流れる空気もこの3作と共通したものを感じました。
過去に起こってしまった取り返しのつかない過失、罪、偽り・・・。
そして、そこから再生して生きていくことができるのか?
重いテーマですが、そういった作品も世の中に必要なのだと思います。
ああ、重松清さん好きなのに一作も書評書いてないことに今気づきました(ーー;)
いやー、キリがないなぁ。
ゆっくりマイペースに書いていきます。。
今、また新型コロナウィルスの影響もあり、近年稀にみるほど厳しく、先の見えない世の中になっていっています。
これから、人心も荒れ辛い時期が続くかもしれませんが、生き延びていきましょう!!
あと、ZOOM飲み会とかやってみたいですね。
ブログじゃなくて、ツイッターのほうが良いのかな?
この時期だからこそ、何か楽しいことやりたいですね~。
音楽系の配信もやれたらと思うのですが、安倍さんがお小遣いくれたらやろうかな(笑)